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2009年8月

考え始めるときりがない

 日本大使館が犬に噛まれないよう注意をしましょう。 などというが、飛びかかって噛みつく犬から逃れようがないではないか。 夜道なんぞは、ほんとうに恐怖をおぼえるほど犬が強くなる。
 狂犬病の危険から逃れようがないならば、予防注射でも打って自衛しなければいけない。

 本業を退職したあと、京都市体育協会に在籍し体育館関係の仕事をしていたが、勤務をしていたのは○○区にある合同庁舎であった。
 この庁舎には○○区役所、図書館、体育館、保健所、青年の家などが付設されていて、それぞれに業務を遂行していた。

 ある日、勝手知ったる保健所に立ち寄って、顔見知りの係員に狂犬病の予防注射が出来るかどうかを尋ねてみた。
 出来ますよ。仕事ですから。  今日でも出来るの と聞いたところ、明日なら出来ます。

やってみるか。 じゃあ明日ね。  それで犬も連れてきてくださいよ。
ちょっと待てよ。注射して欲しいのは俺だよ。 保健所というところは犬の仕事をしていて、人間の仕事はしていないらしい。  ま、せいぜい噛まれないようにして、噛まれれば暴露後免疫の注射でもするか。

 狂犬病は噛まれたあと、発病するまでの潜伏期間が非常に長いので、発病前に一回目の予防注射をすれば、暴露後免疫ができて助かる確率が高くなるそうだ。

 ミャンマーとの国境付近ではマラリアも急増しているらしい。これも危険情報によれば、蚊に刺されないようにしてください。 とある。 そんなことができるかい。
 O型の血液に蚊は多く集まると聞くが、私はO型なので悲劇だ。少々の忌避薬を塗布したところで、大量にいてどうにもならない。運を天に任せるしかないか。
 
 でもマラリアは発病したら4日以内に治療しないと、死亡率が極端に高くななるそうだから困ったものだ。 しかも治療に使う薬の副作用もかなりきついそうだ。

 東南アジアへは行かない方が無難か。など出来もしないことを思い悩まずに、強気で計画をするべきだと一応は考えるのだが。

 





 

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タイの犬

  日本の犬は愛玩用として、家庭で管理飼育されていて、家族のいいパートナーである場合が多い。 しかしタイの犬は、家庭で面倒を見ている犬もあるが、ほとんどが野放しの状態となっている。
 これらの犬は昼間はいたるところで、グターっと寝ころんでいて吠えることすらしない。

 タイの犬を見ていると、首輪もつけていないし全く自由に人間社会の間で生きている。日本の犬の生活とタイの犬を比べて、どちらが幸せであるのかは分からない。 が

 夜間になるとヤツらは、むっくりと起きあがり急に元気になって、群れをなして徘徊を始める。 昼間は死んでいるようなヤツが、夜の社会を支配し始めるから困るのである。
 少し淋しい道へ入り込もうものなら、これでもかとばかりに吠えまくり、近隣の犬まで出動して犬相を変えて恫喝にかかる。

 野犬、家犬を合わせれば膨大な数であろうが、中には皮膚病にかかった犬や事故で足を引きずったのもいて、バンコクでは犬の管理などまったくなされていない。

 3年ほども前になるか、在タイ日本大使館が出している安全情報をみた。それによれば狂犬病で死亡する人が年に20人を超しているそうだ。 で 「犬に噛まれないように注意をしましょう」 と書かれていた。何を言っとるか。

 噛まれないように、どうすればいいのか。これを教えて欲しいものである。 役所の文章などこんなものだ。
 話はそれるが、社会保険庁から社会保険に関する御知らせが届いた。このお知らせたるや難解な言葉を駆使して、どう読んでも意味の理解できないお知らせであった。

 穿った見方であろうが、わざと一般の人に理解の出来ないような書類を作ったとしか思えない。
区役所からの書類などは、わかりやすく書いているが、官庁とか呼ばれる役所からの書類は
今でも絶望的である。

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タイの外人は

  タイの国内を旅することが多いのだが、、どのような田舎へ行っても日本人とわかるらしい。 
 タイには日本人のほかに、あまたのアジアの人々が来ているのに、と考え込んでしまう。

一度だけ台湾人と間違えられた事があったが、あとはすべて日本人と知れてしまったのだ。
 考えてみれば、京都の観光地で出会う観光客でも、あの人は韓国人、この人は中国人、タイ人などと、かなりの確率で判断が出来るのだから同じ事か。
 
 タイでは、アジアの国を国名で表現し、ミャンマーは「パマー」、ラオスは「ラオ」、日本は「イープン」
カンボジアは「カメー」、そのほかにはコーリア、チンなどと、それぞれ呼称している。
 面白いのは見ただけでは判断できない多くの白色人種である。これらは、すべてひとくくりで、
「ファラン」と呼ばれている。(語源はフランスといわれる) ま、十把一絡げですな。

 ようするに、見た目で判断できそうにない白い人間は「ファラン」である。
一概には云えないがタイ人は、「ファラン」が一番偉いと心得ているようである。それぞれの国で役に立たず、食い詰めて流れてきたのも多いのだが、困ったことだ。
 しかし「ファラン」には国籍が無視されてのファランだから、可哀想と言えば可哀想か。

 私なども「ファラン」を前にすると、持ち前の劣等感がむくむくと頭をもたげて、その反対に気持ちは萎えてくるのだから、人のことを云えた義理ではない。
 そして、弱い犬の遠吠えさながらに、色が白くてどこが偉い。英語しか出来ないくせに、と思う自分
が情けない。

 国民感情として持っているのだから、仕方がないのかも知れないが、それぞれの国に対しては
かなり差別した見方をしているようだ。
 空港の入国審査では中東というのか、アラブ系という人たちに対する審査が、意地が悪いとしか
思えないような態度で接しているのをよく見かける。

 またアジアの人については、食事でテーブルや床にゴミをまき散らし、買い物でも傍若無人に大声を出して、商品をさわりまくる国は特定されているようで、入店した時から店員の顔は引きつっている。 これは差別とは思はないが、事実だからある程度敬遠されてもやむを得ないだろう。

 その点日本人は、形の上では仏教徒であり、お金をたくさん持っていて、優しい国の人と、誤った親近感をもって見られているようである。

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写真が写したくなるような

  物乞いや押し売りを後ろに従えての市場の見学は、興味はある物の何とも鬱陶しい。
声を荒げてタイ語で要らないと云ってみたら、次第にその数が少なくなっていった。

 気を取り直して、更に進むと少数民族らしい人たちが多くなって、山で作ってきた物などを売って
いた。
 そこで目にとまった20才台後半と見える女性が、ブリキで作った誰もが買わないような玩具を、
小さな台の上に並べていた。
 頬にタナカを白く塗って、笑顔の美しい女性であった。その横には小さな子どもが二人並んでいて、この頬にも無造作に白いタナカが塗りたくられていて何とも可愛い。

 許しを得て、笑顔の美しい魅力的な奥さんの写真と、子どもの写真を撮すことができた。
考えてみれば、日本で美しく魅力的だからと云って、写真の撮影を申し出ることなんて、あり得ることではない。
 旅では自分を見失っているのか、それとも厚かましくなっているのか。はたまた正直になっているのか。  日本ではからっきし意気地がないんだがなあ。

 ミャンマーへ入国してたった4時間、見るべき物無し、買うべき物無し、虎の皮と魅力的な女性の写真を撮っただけだ。
 衝動的に入国して見ただけ、パスポート上では、出国、入国、出国、入国とスタンプは4個も押されていた。好奇心だけで動いたミャンマーであった。

 その後、バスターミナルまで行って、チェンライへのバスに乗ったが、閉まらない窓からは暴風のような風が吹き込むので、暑さはまったく感じなかった。 

 「マンゴーが空から降ってくる」の著者である、水野 潮氏はこの近くの村に家がある。
水野氏はタイの美人女性と結婚して永住され、奥さんと子どもさんとお婆さんと暮らされている。   この田舎の生活の様子を出版されたものだが、田舎の村の暮らしにも家庭の中でも完全に
とけ込まれていて、読んでみるととても楽しい。羨ましい限りである。

 

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ミャンマーへ入国してみると

  国境の橋を渡るとミャンマーのイミグレーションが待っていた。 ここで2枚のコピーと5ドルの
入国料を、支払った。 ドルが無い場合はタイのバーツで換算して支払うことも可能だ。
私は万一を思って5ドルを持参していたのだが、入念に調べて角に小さなシワがあると、受け取りを拒否され、タイバーツで支払った。

 バーツ札のシワはあってもかまわないところをみると、ドル紙幣は国として最も大切な通貨なのだろう。
 このビザなしの入国は一日限定で、ミャンマー国内はイミグレーションから5キロメートルしか移動できないシステムである。

 入国するやいなや、お粗末なトゥクトゥクや人力車、物売りなどが、圧倒的な力でワッと押し寄せてくる。 気の弱い私はおどおどと逃げる隙間を探していた。

 このタチレクと呼ばれる街の右側一帯が市場になっているが、通常の食材などを売っている市場ではなくて、衣料品やお土産にもならない雑貨ばかりで、物の役にたいそうな物は少ない。
 それぞれの小道では密輸品、模造品をさも高級品と見せかけて歩く売り子が、五月蠅いほど存在する。
 百円ライターを売る男性、ドライバーを一本ずつ売るやつ、煙草の「マールボロ」1カートンが400円
ウイスキーのジョニーウォーカーが300円とめちゃくちゃ安い。

 タイ人の偽物屋が買いに来て、バンコクの繁華街であるパッポンあたりで、声を張り上げて「ウイスキー、煙草が安いよ。ローレックスの偽物が500円」などと、見ているだけで楽しくなるような販売をする品々である。

 街の角で、取れたてのような虎の皮が3枚乾かしてあり、その横では立派な象の牙も十数本売られていた。 カメラを向けると慌てて撮すなと云ってきたが、遅い!撮した後じゃ。
 こんな連中でもワシントン条約は知っているらしい。

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国境が開いた

  午前7時に国境が開いた。タイ側の人達も、ミャンマーの人達も一斉に動き出した。
まるで今まで堰き止められていた水が、急に流れ出したような光景である。 ミャンマー(ビルマ)の
人たちは一目でそれと分かる。

 ビルマの男性は全部ではないがロンジー(巻きスカート)をはき、女性は例外なく頬に白い木に粉を水で溶いて塗っている。
 タナカと呼ばれる白い粉末は、日焼け止めとアクセサリーを兼ねているのだそうだ。

 全員の女性が頬に白い粉を塗っている光景をよく見てみると、女の赤ちゃんなどは、すこぶる可愛いし、年配の女性ももなかなかチャーミングに見えるから不思議だ。

 左の山道から出てくる女性達は、山から下りてきた山岳民族である。この人達は独特の衣装を
身につけ、背が一様に低い。
 頭に荷物を載せて、背に籠を背負って歩く彼女たちは、縦一列になって歩く習性を持っているようだ。彼女たちが横に広がって歩くのを見たことがない。
 
  しばらく観察をしていて、猛然とミャンマー(ビルマ)へ入ってみたくなった。
 まだ一人歩きは2回目だ無茶は止めようと云う気持ちと、せっかく来たのだから入国しよう。 命まで取られることはないだろう。 という二つの思いが心の中でせめぎ合っていたが、ミャンマーへ入ってみる事にした。

 不安な気持ちを抑えながら、タイのイミグレーションでパスポートを提示したが、コピーも2枚揃えて提出するよう指示を受けた。
 このコピーの1枚に、タイ出国のスタンプを押てパスポートは預かるそうだ。

 日本を出るときに、パスポートは命の次に大切。と云われ続けていたのに今は無く、手にするのはスタンプを押した紙切れ1枚となってしまった。 何と心細いことか。

 タイのメーサイとミャンマーのタチレクは、間がわずか20メートルの橋で繋がっていて、橋の下には3メートルほどの川が流れている。 
2つの国の人たちは、僅か3メートル離れて話を交わしながら、毎日生活を送っているのだ。

 

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期待できない功徳

  何事もなく夜が明けて、朝靄の中を散歩に出かけた。 まずは日頃まったく縁のないお寺参り
でもして、すがすがしい気持ちで一日のスタートを切ってみよう。

 小高い山の上に、ドイワオ寺があって、長い石段をのぼり始めた。
 60キロほどの体重をか弱い2本の足で、上へ上へと押し上げる作業を伴うので、階段であろうが石段であろうが登るのは嫌いだ。

 20分ほどで山頂へ上り詰めた。山頂にはお寺の境内が広がっていて、朝の眺望がすばらしい。
その時バイクの音を響かせて、警官がパトロールか気まぐれか知らないが登ってきた。
年寄りの不審者とでも思ったのか、私の横までやって来たので、これ幸いと案内を請うた。

 下に見える細い川が 「サイ川」 その向こうはすべてミャンマーで、上流では川の手前でもミャンマーだから気をつけろ、らしきことを縷々説明してくれた。
 こんな会話は内容がほとんど分からないので、内容を予測して聞いていると分かったような気がするから不思議である。

 暫くして彼は下に降りるが、よかったら後ろに乗れというので、好意を受けることにした。下界の
登り口まで、たった3分ほどで着いてしまった。 ああ楽だった。と思った瞬間、忘れていたことを思い出した。 お参りすることを忘れていたのだ。 ま、この程度のお参りで、功徳を期待することが厚かましい。
お寺にいって参詣することを忘れるようでは、頭の衰えは随分進行しているようである。

 ところで俺って、老人が薄暗い山の石段を登っているとでも通報があって、不審者として保護されたのかも知れない。

 大通りまで出てみると、人の行き来が活発になっていいた。みんな午前7時に国境が開かれるのを待っているのだ。





 

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メーサイの夜は更けてゆく

  食事を済ませて、今日は一気に北タイの、それも一番北までやって来たので、疲れた身体を十分ほぐして明日に備えようと、自分に言い訳をしながら古式マッサージの店を探してみた。

 ホテルにほど近いところで、小さな足ツボマークの看板を見つけて、ドアを開けると地下に続く階段があった。 その地下にはひな壇があって、おばさんが6人並んで座っておしゃべりをしていた。
何だ! きびすを返して帰りかけたのだが、せっかくだからと考え直して確認をした。

 ヌアッペンボラーン? (タイ古式マッサージ?)と聞いたところ、健全なマッサージだという。
それならやるか。 料金を確認して立っていると「どれでも選べ」 と云うが、気の弱い私に選べるわけもない。
 ここは誰でもいいとまかせると、大柄のおばさんが立ち上がった。 マッサージが始まって思った。こんな上手なッサージを受けたのは初めてだ。 来てよかった。 と

 おばさんはアカ族の母親と中国人の父親をもって、雲南省の山から移動してきたそうで、言葉は通じなかったけれど、漢字が書けるので、筆談はできた。

 眠くなったのでホテルに戻り、五階の自室へ帰ろうとエレベータに乗った。 四階から30台の白人男性が乗り込んだきたのだが。
 その横には12~13才くらいの、山岳民族と思われる女の子が一緒に並んでいた。夜の11時ですよ。 私はこの時初めてスモールレディーの意味を知ったのである。

  そういえば以前新聞をにぎわした、和歌山の玉本とかいう男は、タイやカンボジアの少女ばかり 11人と結婚したと称し同居していて、タイを永久国外追放になっていた。
これに似た人はいるのですなあ。 なんかメーサイが危険なところに思えてきた。

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メーサイの街は雨だった

  バスターミナルから立錐の余地もないほどの客を詰め込んだソンテウは、15分ほどで街中を通って終点についた。 料金は僅か15円である。

 先ほどから降りそうだった雨が降り出し始めた。すると街の様相ががらりと変化して、面白くなった。 タイ人は歩くことが大嫌いなので、田舎でも自転車など使わず、ほとんどがバイクである。

 仕事帰りの人や学校帰りの人で混雑ていたバイクが、一斉に傘を開き始めたのである。 なんと色とりどりの傘の花が咲いたのだ。
 見ものである。 傘を差しながら2人乗りや3人乗りなんかは当たり前、4人乗りさえ走っている。
中には小学校の低学年の児童さえ2人だもの、どうなっとるんだ。

 以前タイの先生に聞いたことがある。免許が無くっていいのですか。人数制限は無いのですか。と
タイの先生はたった一言「乗れればいいのです。」   そりゃまあそうですが。
 学校を一歩でたら、後は親が判断し指導すればいいのだそうだ。

 傘さし運転は違反です。二人乗りはいけません。幼児さえも二人か三人でああだこうだと揉めている、どこかの国も多少は余裕のある考え方をしたらどうだろうか。

 メーサイで一番大きなホテル(ワントンホテル)に、飛び込みで泊まることにした。
チェックインをすませて部屋にはいるまで、荷物もないのにボーイがついてくる。
挙げ句の果てに、部屋の中に座り込んで云うことは、スモールガールは要らないか、の押し売りである。フロントに電話をかけてお引き取り願った。 ややこしいホテルだ。

 雨が降っていたが、外出して屋台で夕食をとった。ふと横を見ると子どもを背負った母親が、雨に濡れた髪をなで上げながら私の方へ手を差し出していた。 こんなのには弱いんだなあ。
90円を渡すと陰のように消えていった。

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一番北の町へ来たものの

  1996年の2月に、一人でアユタヤへ行くことが出来たので、ひょっとすると言葉が不自由でも
時間とお金さえあれば、一人で外国を歩き回ることが出来るかも知れない。
などと不埒な事を考えるようになった。  その結果、暴走し始めたのが世に言う「還暦」の年である。

 アユタヤ行きから4ヶ月後の6月に、私はバンコクを経由してタイ最北のチェンライ空港に一人で降り立った。  チェンライからは、外装は赤錆か、と思えるようなボロボロのバスに乗って、更に北のメーサイをめざした。

 バスの窓は開かない、ドアは溶接で固定されていて閉まらない、更に1時間も走って停車した。
ドヤドヤと警官が5人ほど乗り込んできた。 こんな事態に遭遇して「還暦」は動顛し、こんなところまで来るのではなかった。 と悔いてみたがどうにもならない。

 タイ人やビルマ人(ミャンマー)は、老若男女を問わず、全員が写真入りの身分証明書の携帯を、義務づけられている事を初めて知った。
 中には手書きの証明書をもっている人もいて、有無を云わさずバスから降ろされていく。
私は身分証明書なんか持っていないと困惑し、動揺たがパスポートは証明書だったんだ。 

 検問で降ろされた数人を置き去りにして、バスは何事も無かったごとく走り続け、メーサイのバスターミナルに到着した。
メーサイはメーサイであろうが、こんな山裾のターミナルで降ろされてもなあ。 
 街はどこにあるのだろう。 その時オーイとおばさんの呼び声に気が付くと、私に向かって手招きをしていた。

 おばさんは赤い色のソンテウ(小型トラックの荷台を客用に改装した乗り物) から身体を乗り出して呼んでいた。
 行ってみると座席には10人ほどの客が乗り込んでいて、もう乗れる状態ではなかった。 
そんなことにはかまい無く、尻込みをしている私を引っ張りあげて、座る場所を作ってくれた。 

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さて アユタヤの遺跡は

  バスが着いた瞬間から、トゥクトゥクがたくさん集まって付きまとい、こんなことは初めてなので
度肝をぬかれた。
 何とか振り切って、一番近くの遺跡ワットプラマハタートへ走り込み、遺跡を見学中の日本人の
ツアーに潜り込んだ。 一応避難のつもりで逃げ込んだだけなのだが、これは無賃乗車と同じで違法な行為である。

 観光できているのは、日本人と白人ばかりであったが、小学生の学習なのか、児童達が観光客に
国名を聞き、サインもらっていた。ここの人気は白人がダントツである。
 皮膚の色がタイ人と比較的似かよった日本人には、新鮮な魅力を感じないのだろう。

 池の畔を小学生の少女が10人ほど、ガールスカウトの服装に身を固め、旗を先頭に一列になって歩いていく。可愛くってほほえましい。
 その横を日本の若い女性が、象に乗って得意そうに追い抜いていく。  気持ちは分かるが、私はこの年まで乗ったことはないのだ。 上から偉そうに見下ろさないでいただきたい。

 遺跡を見入っていると、背広を着た一見紳士風の男が近づいてきて「これは日本のお金ですか」と
日本語で聞いてきたので、見てみると5,000円札であった。

 小さいお金と交換してください。と付きまとうので、日本のお金は今持っていないと突き放したが、
何の目的で近づいて来たのだろう。

 しかし、くそ暑いのに背広姿で流暢な日本語で話しかけるには、何か魂胆が無ければならない。
その魂胆は分からないが、臆病者の直感で「詐欺」と断定した。 今もってどのような詐欺であったのかは不明である。
 
 一人旅は気楽ではあるが、帰路が気になって落ち着かない。ましてバンコクの渋滞を考えると
気が気ではない。

 復路はバスターミナルではなく、道路の横から発車するので、迷うことなく乗車できた。
バンコクにはいると、予定通り渋滞に巻き込まれた。世界でも名高いバンコクの渋滞である。

 その渋滞で停車している車の間を縫って、新聞売りの女性や、ジャスミンの花で作ったお守りを売り歩く子ども達が渡り歩いていた。

 大きな通りでどの車もまったく動く気配もない。そんなときに新聞の売り子が近づくのだから、売れること売れること、機を見るに敏なたくましいタイ人の姿であった。

 アユタヤへバスで行っただけの一日であったが、独力でアユタヤ遺跡まで往復できた事が、どれほど自信になったことか。

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バスに乗るまでが大変だ

  乗り換えた都バスは、15分くらいで北バスターミナルに着いた。  都バスばかりでターミナルが見あたらない。

 人の流れに乗っていたら行けるだろうと、200メートルほど行って驚いた。
この巨大な建物がバスターミナルか。
 中に入ってみてもう駄目だと観念した。ほとんどタイ語で行き先が表示されていて、切符の売り場が一階の内外に100ヶ所以上、三階に120ヶ所ほどあって出るのはため息ばかり。 

 やっとインフォーメーションを探し当てて教えを請うた。
アユタヤ行きは15分毎です。切符売り場はあそこですよと、教えられた窓口へ行ったら、次のバスの発車時刻が書いてあって切符を発売していた。

 この切符を買ったらいけないのだ。 10分後に発車する座席指定の切符を買って、次はどうやってバスを探すのか。
 広いターミナルには数百台のバスがいるのに、私の乗るアユタヤ行きのバスを探す時間の余裕なんて無いではないか。

 切符を買わずにアユタヤへ向かうバスが集まっている乗り場を探した。迷って聞いて動揺して、
やっと見つけた。 これで切符を買っても大丈夫。
 行きたいところのバスを求めて、こんなに苦労しなければ乗れないのか。
初めての体験にしてはきつすぎたが、やっとアユタヤ行きのバスに乗ることが出来た。

 乗ったバスに客は私一人しかいない。 ほんとうにこのバスか、とまた心配していたら、発車間際に韓国の娘さんが乗ってきた。
 走り始めてから客も増え始めて、ドムアン空港近くでは、めでたく満員となってしまった。
 それでも車掌は、アユチャー、アユチャーと声をからして呼び込みをしていた。

 座席指定ではなかったのか、でもここはタイだ。そんなもん誰も守っていない。
朝が早かって居眠りでもしてやろうと思った時には、バスはアユタヤに到着しようとしていた。
 バンコクからの所要時間は2時間、料金は100円であった。

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10年以上も前の旅ですが

  私が初めてタイ行ったのは、14年ほども前のことである。 学生時代からアフガニスタンや
タイへ通い続けている弟に連れられて、タイ王国の土を踏むことになった。

 初めての海外旅行ということで、ガチガチに緊張して、ただただ迷わないように、弟の後ろに
金魚の糞のようにくっついて、どこへ行ったのか、何を食べたのか、その記憶はまったく残っていない。

 その一年後の1996年に、初めてのお使いではないが、初めて一人でタイに旅立つことになった。        空港の出入国はどうするのだろう。声をかけられたら英語なんかまったくわからん。
 うまくバンコクへ到着してからタクシーに話しかけられるだろうか。不安と緊張で、眠気などはまったく覚えなかったことを懐かしく思い出す。

  なんとかホテルにチェックインした翌日に、無謀にも、観光地アユタヤへ初挑戦をすることにした。この旅が、その後に続くタイ一人旅のスタートである。

 初めての旅は、ツアーではなく一般の交通機関を使って行こうと決めていたので、この夜は
アクシデントが起こったらどうしようと、あれこれ悩んで眠りは浅かった。

 朝暗いうちにホテルを出てシーロム通りから77番のバスに乗った。このバスをチャトチャック公園
で降りたら、予定では近くに目的の北バスターミナルがあるはずだ。 しかし近くを探し歩いてみるが、それらしいものは見あたらない。

 地図を示して聞いてはみるのだが、相手の人は首を振るばかり、まだこの時はタイ人のほとんどが、地図が読めないことを知らなかった。
 それでも7人目の賢そうな青年が教えてくれた。 心細い旅のはじまりで、アユタヤなんぞ行けるのだろうか。

 北ターミナルのことをタイ人は、モーチットと呼んでいることを初めて知った。
でも日本のガイドブックには、北バスターミナルとしか書いていない。 そうか、モーチットか。
 モーチットは公園の西側にあって、再びバスに乗って行かねばならず、到着したのはホテルを出てから2時間30分も経過していた。



 

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