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2009年11月

チェンマイで何をしたのやら

  チェンライはわずか3泊で、再びチェンマイへ舞い戻った。
チェンマイプラザホテルにチェックインして、館内にある旅行社の前を通ったら、前にガイドをしてくれた青年がめざとく見つけて、声を掛けてきた。

 どうです、これからドイステープとメオ族の村へ行きませんか。彼の車はまだ新しい日本車で乗り心地がよく、また彼のガイドぶりも日本語がペラペラのペーラだから、うっかりその気になりかけたが、思いとどまった。

 と言うのも、この有名な山のお寺へ上がる山道が、私の車酔いの波長とぴったり合っているのだ。
タイで車酔いなどすることは無いのだが、これまでに3回お参りして、3回とも車酔いなのだから鬼門もいいところだ。 行かない。

 その代わり、ピン川のクルーズとカントークディナーを頼んだ。 あまり興味はないが一度も経験がないので、ここは学習である。
 カントークディナーなる物は、丸いお膳に数種類のありふれた田舎料理で、タイ舞踊も披露されていた。
 しかし、これは観光客を意識した昔の夕食で、一度食べれば二度目はもういらない。

 夜はお馴染みのナイトバザールへ繰り出した。このバザールのあちこちにはリクライニングチェアーを5~6台も並べて、野外でフットマッサージをやっている。
これはこれで疲れは取れるかに思うけれど、機械的な感じがして情緒が全くない。

 チェンマイは「北方の薔薇」と称されるほど、豊かな歴史と温暖な気候に恵まれているので、外国人が多数滞在している。
もちろん日本人も多く、長期滞在される方も年々増加していて、悲喜こもごもの話はよく聞く。

 今回チェンライから、再びチェンマイへ舞い戻ったのは、チェンライで面白い話を聞いたからである。 その話とはチェンマイからスコータイヘ、小さな飛行機で簡単に行けるようになったそうだ。
こういう話にはフグのように、簡単に引っかかる、タイスキおじさんなのだ。

 スコータイの遺跡を訪ねる旅なんて、全く予定していなかったがまあいいか。
ホテル内の旅行社に航空券の手配を依頼して、確保は出来たが、後で思えばよく航空券が取れたものだ。

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チェンライへのバスでは こんな事があった

  メーホーソンの空港は小さな町なので、歩いて10分で行ける。今日の目的地は、チェンマイをとばして、一応チェンライと考えている。
以前はチェンマイからチェンライへ、エアーアンダマン航空が飛んでいたが、現在のアクセスはバスしかない。

 メーホーソンからチェンマイ空港につき、軽い昼食をとって、トゥクトゥクでチェンマイアーケードバスターミナルへ移動した。 このターミナルからチェンライ行きのグリーンバスが出るのだ。   山道を3時間30分ほどかかるそうだ。

 ターミナルに赤毛を伸ばし放題にして、髭だらけのヒッピー風の青年が、ボロリュックを担いで座っていた。 うっとうしい一番嫌いなタイプだ。

 不運である。神に見放されたのである。 ヤツが俺の隣の座席番号を持っていたのだ。
旅は楽しいものと云うが、楽しくない旅だってあるのだ。 バスが動き出しても車窓だけを眺めて、無言の行が2時間半ほども続いた。 もうそろそろチェンライ県に入ってもいい時間だ。

 そう思って北部の地図を開き、現在地を確かめていた。 するとヤツが横目でチラチラ見とる。
そして 「アナタハ、ホンノ カタデスネ」  オドロイタ驚いた。 流暢な日本語ではないか。
私が日本人とよく分かりましたね。というと、 顔が日本顔です。
それから、地図の文字が全部「カタカナデシタ」  これは残念ながら完敗であった。

 彼はニュージーランド人で、4年間東京大学に留学していてこの間卒業したので、タイからミャンマーを経てインドに行きます。 とのことでした。

 和やかに日本語の会話を続ける内に、チェンライのバスターミナルに到着した。 ヤツは私に
「オキヲツケテ、イイタビヲ、シテクダサイ」   君には負けました。 
 人は見かけで判断してはいけないことを、この歳で実感した。  それにしても旅ではいろいろな体験することがあるあるものです。

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朝のメーホーソンは清々しい

  市場を出ると買い物客を狙って、人々の足であるモトサイ(バイク)が並んで客待ちをしていた。
太った女性のドライバーが、私を見て パイナイカッ (どこへ行くの) と声を掛けてきたので、とっさにドイコンムー(山上のコンムー寺)と答えた。

 ドイコンムーは、 430メートルの山上にある寺院で、ここからはメーホーソンの全景を見ることが出来る。 話はまとまって、オバサンのバイクはあえぎながら登山を始めた。
山の上は気持ちが良いのは分かっているが、下りは良いが登りがあるから歩くのは嫌なのだ。

 早朝の曲がりくねった山道は、さすがに清々しく気持ちがよい。
重いオバサンと標準タイプの私を乗せたバイクで、やっと山上のお寺に着き、そこから見渡した風景は、町並みや空港の滑走路、霧にかすむ山々が一望できて素晴らしい光景であった。

 霧を背負った山に目をこらしてみると、あちこちの山から細い煙が立ち登っているのが見える。
煙の立つところが少数民族の村々で、独自の文化を持って、生活を営んでいるのだろう。
そんな彼らの生活を好奇の目で、見物に行くのはやはり好きではない。

 メーホーソンの遠景に満足して、再び重さにあえぐ可哀想なバイクで下界に降りた。オバサンにホテルではなく、ワットチョンクラーンまでといって、昨日と同じ池まで送ってもらった。
ビルマ風の寺院二つが連なって並び、その影を池に落とす景色は、何とも私の心を魅了してくれる。

 池を巡り、ワットチョンクラーンまで来ると、静かな境内を僧達が朝の掃除にいそしんでいた。
挨拶を交わしたインテリ風の青年僧は私に台湾? いやいや日本人ですよ。
彼にチョンクラーンは非常に美しいですねと誉めたところ、得意そうに微笑んでいた。

 この寺院の内部と博物館は入場料を取って、9時から見学が可能となっていたが、青年層は猫を一匹従えて、私を本堂に誘い、隅々までを案内をしてくれた。
開館一時間前、入場料免除、猫の案内い付きの破格の待遇であった。

 ホテルへ帰ると、トレッキングの出発時間で、ファラン (白人) の男女が賑やかにバンに乗り込むところだった。 やはりヤツラは好奇心丸出しの顔をしとった。

 静かになったホテルの食堂で、トーストに目玉焼き、コーヒーの、まことに質素な朝食をとって、
また今日の一人旅が始まる。

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メーホーソンの雨

 雨季の雨は山間の町でも例外なく、よほどのことがない限り 午後に3~4時間ほどは律儀なほどにやって来て激しく降っていく。

 マッサージを終えてホテルに帰ろうと、店から出てみるとかなりの雨の中を、三人乗りなどのバイクが5~6組傘をさして走っている。学校帰りと仕事帰りが重なっているからだろう。
こんな光景を日本の警官が見れば黙って見過ごすことはない。

 この大雨で、ボロ傘を差していても役に立ちそうにないので、近くの食堂に逃げ込んだ。
適当な料理を注文して、あと一品お勧め料理はないかと聞いてみると、「すき焼き」! これがうまいと男の店員がいう。本当かいな。

 物は試しと、、「すき焼き」を注文した。  出てきたのは、大きな丼茶碗に野菜、茸、卵、肉、その他をごちゃごちゃに入れたスープであった。こんなん、、「すき焼き」と違うやん。
日本のすき焼きを期待する方が間違っていた。それにしても大きな特製の丼であった。

 さて、このスープを一口飲んでみると、味が濃厚である。複雑でうまいのである。
辛い、酸っぱい、味噌の味もする、これは海老味噌かも知れない。 このすき焼きは次回来る機会があれば、また必ず食べるだろう。すき焼きは80円の料金で満足であった。

 
 日本より夜明けがかなり遅い。6時過ぎになってやっと明るくなってきた。まだ眠り込んでいた警備員に玄関を開けさせて、朝の散歩に出かけた。  あれほど降っていた雨も午前中は降らない。

 爽やかな朝の空気を満喫しながら歩く道々には、托鉢の僧侶の列が絶え間なく続いていて、これはこれで一幅の絵である。
それにつけても、こんなに托鉢僧が多い町は初めてだ。タンブン(喜捨)をする善良な仏教徒でも、毎日となると大変だろう。

 賑やかな市場があったので、さっそく覗いてみた。山で取れた食材を並べた山の人たち、まだ暗い山道を何時間も掛けて降りてくるのだから大変な事だろう。
川や沼で獲れた魚や蛙、亀、バッタ、タニシやゲンゴロウまでタンパク源になっている。

 動物や植物は毒性がなければ、全部食用になると頭では分かっているが、、鶏の足首とか芋虫や豚皮の天麩羅を買って帰る様子を見ていると、生育環境の違いに寄るのだろうが、食べてみようと云う気にはならない。

 

 

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ついに来たぞ メーホーソン

  ついにやって来ました。ビルマのすぐ側の山間の町は霧に覆われて神秘的だった。

 さっそく空港から遠くない、市場が近い、優雅な寺院にも一番近い、手頃なホテルに焦点を置き探してみた。。
 選んだのは木造のホテルで「 バイヨークシャレーホテル」 が希望に近かったので、宿泊することにした。朝食付き 600バーツ(1,700円)で清潔、機能的な山小屋風の部屋は快適で気に入った。
   
 今回なぜメーホーソンかと云うと、何万人もの有為な日本兵が無念の死を遂げた、白骨街道に近づき、少しでも鎮魂の意を表したいことと、ガイドブックには必ず紹介される、池の畔に優雅に建つビルマ風の寺院が見たかっただけである。

 ホテルの従業員が盛んにトレッキングを薦めてくれるのだが、私は首の長い女性には興味はないし、観光化した山岳民族の村に入村料まで払って、曲がりくねった山道を車酔いしながら、行く気もない俗に言うへそ曲がりである

 一休みすることもなく、綺麗な池の畔に立つ「ワットチョンクラーン」と「ワットチョーンカム」を見に行った。 ビルマ(ミャンマー)の影響を受け継ぐこの寺院は、美しい水面にその影を落して、とても美しい。 うん、見たかったのはこれなんだ。 目に焼き付ける風景ってあるもんだ。

 素晴らしい池畔で、寺院の落とす影を鑑賞したり金色の寺院に見とれたり、池にいる魚の群れに遊ばれたりしての2時間は、心休まるひとときであった。

 チョーンカムには光り輝く金色の重厚な仏像が安置されていて、黄色い袈裟を着けた老僧が座っていた。 暇そうにしていたので話しかけてみた。やはり人並みに退屈されていたようで、延々とお話は
続き止まるところをしらない。

 こんな長話では言葉も内容も理解が出来るわけがない。分かるかどうか判断もできない僧侶も情けないではないか。 私は退去の機を窺うのに大変だった。 言葉も十分に分からない私が、声を掛けたのはうかつでした。

 頭の中に入れ込んだメーホーソンの地図を広げて、いつもの事ながら古式マッサージを探した。
やはりタイである。どんな鄙びた山の中の町にも、人がいればマッサージ店もあるのだ。
昨日の午後自宅を出てから動き続けなので、2時間のマッサージのうち、後半は熟睡していたようである。

 促されて、目を覚ますと、凄い雷が大雨を連れて来ていた。  チップを渡して、出口付近にあった古ぼけた傘を手に取り、プルンニー(明日)というと頷いていたので、そのまま傘を手に飛び出した。






 

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いざメーホーソンへ

 長らくサーズの影響でタイへの足が遠のいていたが、久しぶりに動いてみた。やはりタイ航空の搭乗率は50%位と低調であった。

 関西空港を深夜便で出発したので、バンコクはまだ夜も明けぬ早朝だ。
 バンコクの午前5時は、まだ暗闇の中に蒸し暑さが同居していた。今回の旅は億劫であったり、毛嫌いしていたりして、これまでに訪れることを躊躇していた土地を訪ねるのがねらいである。

 入国審査を終え、スーツケースを空港の荷物預かり所に託して、チェンマイへ向けて出発である。

 チェンマイでは、更にメーホーソン行きの飛行機に乗り換えて30分のフライトで、山の中の小さな空港へ着陸した。首長族をはじめ少数山岳民族の村を訪れるトレッキング基地として有名なメーホーソンの村である。
 もちろん時差の関係もあるが、関西空港を深夜1時25分に出て、午前10時35分にはメーホーソンに着いていた。

 第二次世界大戦で、雨季のインパール作戦に破れた日本軍は、食料弾薬とも全く無く大敗北を喫して、ぬかるみの中を徒歩でタイへ向けて敗走を続けたが、殆どの将兵は飢餓にあえぎつつ、道路に倒れていった。この道路は今も白骨街道と呼ばれている。

 ビルマから続くメーホーソンも、その通過点であったので、あまりの悲惨さにメーホーソンを訪れるのが気乗りしなかったのだ。でもついに来てしまった。

 チェンマイからメーホーソンへのタイ航空は、一日2便しかなく座席はいつも満席で航空券の確保が難しい。 私は一ヶ月も前に淀屋橋のタイ航空へ出向いて、この航空券を購入していたので、これは大正解であった。

 淀屋橋で購入するチケットは日本円なので、レートの影響で日によって若干料金は変わるが大きな差ではない。 このチケットの料金と、タイのチケットカウンターでの料金も大差はないようであった。
 早くから希少なチケットの購入が出来るので、今後も大いに淀屋橋のタイ航空を利用することであろう。

 このメーホーソンへはタイ航空を利用すれば30分だが、バスでは曲がりくねった山道を何と8時間30分もかかる。 どうしても航空券が取りにくいはずである。


 

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こんな所に有馬温泉がある

 ラヨーンの旅からバンコクに帰って、どこかでホテルを探そうと思うのだが、土曜日でもあってなかなか空室が見つからなかった。雨が断続的に落ち、かなり遅い時間であったが、バンコクには何百軒も
のホテルがあるのだから、どこかに潜り込むことは可能である。

 焼きめしと野菜炒めの簡素な夕食を取って、ふらふらと入ったソイ小道)がパッポン1の次の次のソイでソイ4であった。
 このソイはスリウォン側から入ると古式マッサージが5軒ほど並んでいて、突き当たりである。

 突き当たり奥の右にある 「ウォールストリートインホテル」 に空室があった。さっそく雨で濡れた身体を熱いシャワーで温め、階下にあるウォールストリートマッサージに飛び込んだ。

 疲れた身体をほぐしてウトウトしていると、横のカーテンの下から関係のない手が出てきて、チップチップと言うではないか。ふざけるんじゃあないよ。
バンコクには観光ずれして、こんな程度の悪いのがかなり混ざってきている。

 無性に腹が立って、2時間のマッサージを1時間に変更してホテルの部屋へかえった。
翌日はチャイナタウンへ行って、ホテルへの帰りによく見ると、このソイは、あるはあるわ有馬温泉や
マーブルハウス、とんとん、サリカなどのマッサージ屋の巣窟であった。

 早めの夕食を取って、有馬温泉へでも行くか。 この有馬温泉のオーナーはもちろん日本人で、ガイドブックには必ず名前が出てくる人気店である。
客は日本人が圧倒的に多いのだが、安全な店としてアピールしているので女性客が非常に多い。

 マッサージをする女性が、とても話し好きだったので、聞いていく内に料金の話になった。
2時間のマッサージは料金が繁華街なので少し高く 1,050円だが、彼女の取り分は 250円でしかない。  店は有名なので大繁盛しているが、200人以上のマッサージ嬢?がいるので、一人が一日に多くて3回 (1日で6時間 )しか,客は回ってこない。

 一日に稼ぐお金は500円から750円しかなく、チップで何とか生活しているそうだ。田舎から出てきて、アパート一室を借りて、何人か組んでの共同生活をしながら、懸命に田舎の家族の生活を支え続けている。

 なのに、タイに関する旅行書なんかを読むと、タイにはチップを渡す習慣がないので、無くても良いが渡す場合は20バーツ(60円)くらいであろう。なんとも可哀想に思えるのは私だけだろうか。

 日本のように健康保険はもちろん、固定給(サラリー)もないが、それでも職を得て少なくても毎日収入があるだけ幸せだ。と笑っていた。

 この店が稼ぐお金の大半は、日本人のオーナーが持っていくと聞いて、ごっぽりと上前をはねて稼ぐ日本人は、何ともえげつないことだと思ってしまった。








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年がいもなくステーキを

  タイへ行ったことがある人や、バンコクに興味を持っている人なら、パッポンと言えば大概の人が一度は聞かれた所だろう。
 このタイらしくない変な名前のパッポン通りは、50年ほど前にパッポン氏が土地を購入して、歓楽街を作り上げたので、名付けられたのだそうだ。

  沢山の人をかき分けて、珍しいものはないか、掘り出し物はないか、鵜の目鷹の目で雑踏に揉まれてお腹がすいた。
 サラデーンで電車を降りて、パッポン1通りをスリウォン通りへ向かって歩くと、ちょうど中間を過ぎた左にその店はある。

 こんな所に洋食屋があるのだろうか、不安になってくるが、「ミズキッチン」と書かれているから、見落とさないよう注意されたい。
 中が見えないので入るには少々とまどいもあるのだが、入ってしまえば捕って食われる事はないので大丈夫である。

 ただ、薄暗い店内は清潔感は期待できそうな雰囲気ではない。ゴキ君がはい回っていても不思議ではない。さっそく日本語のメニューを持ってウエイトレスがやってくるが、タイの優しい微笑みなど、どこかえ置き忘れたような無愛想な女だ。

 印象はよくないが、店のオーナーは日本人で、何十年もこのレストランの営業を続けている。したがってお客の60%以上が日本人だと言うのだがなぜだろう。。

 どうしてもなじめない。大正時代の洋食屋がバンコクに移動して、改築しないでそのまま営業ているような感じの受ける店だ。
 日本のガイドブックにはよく紹介される有名店だそうだが、雰囲気は気に入らないが多くの人を引きつけるのは味だろうか。

 私は一番の売りであるサリカステーキなる物を注文してみた。
約10分ほどして、まだ 鉄板の上でジュージューと音と湯気を上げたステーキが運ばれてきた。
 何とも大きい。 熱い 厚いステーキを食べてみると柔らかくて味はとても美味しいのだ。
セットメニューなので、パンとサラダが付いていて、夕食は食べきれないほどであった。

 豪快と言えばこの他に「鯖ステーキ」というのがある。後日食べてみると、サリカステーキと同じように、熱々の鉄板に乗せられてきたのは、一匹のサバが丸ごとステーキに化けて出てきた。

 そのほかに、カレーライス、ハヤシライス、ビーフシチューなど、古い日本の味がそっくり再現されて出てくるそうだ。 どうやら人気店の秘密はこの辺にあるように思われる。 が、変な店だ。

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有名な歓楽街パッポン通り

  BTSのサラデーン駅を降りると、夜は別世界である。バンコク有数の歓楽街でもあるし、お土産を求める夜店も氾濫していて、時間を忘れるほどである。

 BTSが走っている通りがシーロム通りで、そこから400メートル北の通りがスリウォン通りだ。
この大きな二つの通りを渡るように、ソイ(小道)があって、ソイ1がお土産とゴーゴーバー屋さん。

 次のソイ2は食べ物屋と若い男性の店、 次のソイはタイ古式マッサージの店が並んでいる。
その西のソイがタニヤ通りで日本料理店が集まって日本にいるのと違うか。と思わせるほどである。

 さて、パッポン1通りは世界中から集まった観光客が、どこからと無く集まってきて、歩くもままならぬ人出で毎夜で賑わう。
 ここには、時計、工芸品、ブランドの袋物、仏像、衣類などおみやげ物的な夜店が所狭しと並んでいる。 中には 「ローレックスの偽物安いよ」 などと、とんでもない事を叫んでいる店もある。
と、思えば「社長マッサージはどうだ」といけない方のマッサージを薦めていたりする。

 こんな店が集まっているから、どこまで値切れるかがまた面白い。私なんか、オメガの時計が500
バーツに釣られて、立ち止まると「このオメガを買え安いよ」。と浴びせられる。
よし、250バーツ(700円)に下げろ!  すると店員は黙って紳士用オメガの時計を包んだ。

 こんなことなら150バーツほどに値切っていたらよかった。 と、とぼとぼと悔やみながら店を離れるのだ。 侘びしいことだ。
 私の友人のW女史は買い物に掛けては、ずばぬけた才能をお持ちである。日本語で何とこれほど値切れるものかと、いつも感心している。

 こんな夜店がずーっと続いている中、ソイの両側の大音響を発している店には、中央に踊り台が回っていて、その上では半裸の踊り子が10人ほど踊っている。

 その前には年若い日本男児が5人ほど、コーラを飲みながら固唾をのんで見つめていた。 こんな様子が混雑した通りから、嫌でも目に入ってくる。その後はご想像の通り、気に入った女性をお持ち帰りされるらしい。 このシステムはタイ国公認なので、悪いことではないが……。

 動き回ったので空腹を覚えた。今夕は日頃食べないものでも食べようか。それも近くがよい。



 


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初めての海外旅行

  私の初海外旅行はいつのことだっただろうか。 正月に田舎で兄弟が集まって気勢を上げたとき、
気まぐれに末弟がよく行くタイへ行こうではないか。という途方もない話題が出て、飲んだ勢いで決行が決まってしまった。

 見たこともないパスポートを取得して、関西空港から初めて海外へ出かけたのだから、弟からはぐれたら右も左も分からず、どこかでのたれ死にするのは必至である。
深夜にホテルについて、さっそく道路脇の屋台へ行って、訳の分からぬ麺を食べた。

 深夜も2時を過ぎていたが、人通りは多かった。 初めて食べる麺は変な味がして、その中に入っているのは麺の他には、蛇か蛙でも入っていそうで食べられなかった。この程度の認識しか持っていなかったのだ。

 これ以外はバンコクでの記憶が無く、飛行機でウドムターニーまで行って、気がつけばバスターミナルの前にいた。
 弟は私たちを待たせて、近くにいたどこかのオバサンと何やら交渉している。交渉がまとまったらしく、オバサン所有の軽トラックに乗り込んだ。

 着いた先は田舎も田舎、まばらに家のある集落であった。そこには小さな小学校があって、校長がアピチャートという先生である。
事前に弟が来意を伝えていたので、私たちはその先生の家に泊まることになった。

 軽トラックの運転をしてきたオバサンを家に帰すと明日の足が無くなるので、校長が家に電話をして無理矢理同宿することを、ダンナに伝え了解を取った。

 アピチャートは学校の先生や村の若者を集めて、宴会を催してくれたが、お土産に持って行ったサントリーウイスキーは、そっと棚に隠して、代わりにメコンウイスキー(タイの安物)を出してきた。
お風呂は? そんなものは当然無いので、濁った小川で水をかぶるか、かなり離れた小学校の手洗い場で汗を拭くことになった。

 夜の10時ころ、アピチャートは一緒に来いと我々だけを引っ張って歩き始めた。殆ど闇夜に近いあぜ道を歩いていくと、一軒の賑やかな民家から歌声が聞こえてきて騒々しい。
アピチャートが教えた生徒の結婚披露宴であった。

 彼は日本から来た友人が祝福にきた。と紹介して宴は更に盛り上がった。飲み過ぎてどうして帰ったか分からない。
夜明け前に大きな音で目が覚めた。スコールがトタン屋根を雷のような音を出して叩いているのだ。
 高床の竹板の上にゴザを敷いて寝ていたのだが、雨漏りもひどく寝られたものではない。

朝になって、アピチャートの奥さんが喜んでいた。 屋根の高さほどもある大きな水瓶に、透明な飲み水がたくさん貯えられたからだった。そういえばどこの家にも大きな水瓶が2~3個備え付けてあった。 東北タイでは飲み水の確保がなかなかできない。

 一週間滞在したタイ旅行で、今でも残っている記憶は全部でこれだけしかない。人の後をついて歩くだけの旅は、何も残らないのである。
だから、一人で歩くことも必要ではないか。 と屁理屈をつけて、毎年タイのどこかをさまよっている。

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弟にくっついて始めた旅は

  弟の旅の始まりは、よくは知らない。 ただ大学時代から東南アジアへの旅は始まった。
今はタリバンに破壊されてしまったが、アフガニスタンの石窟寺院の仏像の前で撮した写真からみて、そうとうあちこちを巡り歩いたようである。

 その後、稲作文明に興味を抱き、最終的にはタイが主体となって、その旅は今でも続いている。
 彼が最初にタイへ行き始めた頃、目的は定かではないが、一人でバンコクの北にあるブンナムラック村の近を歩いていたそうだ。

 今日は弟と共にエアポートバスを利用してドムアン空港へ行き、車をチャーターして、プラトムタニ県ブンナムラック村を訪れる予定である。

 農村地帯の直線道路を走るのだが、何と遠いのだろう。行けども行けども同じ田園風景が続き、道路の両脇には沼があって、しばらく行くと運河の橋を渡る。
 牧歌的な風景の中にある橋をいくつ越えたか、クローン(運河)のナンバー12が目的地であった。

 しばらく探して、ソンブンの家を見つけることが出来た。以前からソンブンの名前はよく聞いていたが、それが女性であるとは知らなかった。

 弟がまだ大学生であった頃、田舎の生活に興味を抱き、こんな遠い田舎まで来て、道ばたで出会った若い娘さんに話しかけ一夜の宿を請うたことが元で、一家の人たちとの交流が始まった。

 何度か村を訪ねるうちに、ソンブン一家はもちろん、村人たちとも運河で泳いだり魚を捕ったりするうちに、その村にどっぷり浸かってしまったそうである。

 そんなことを聞くにつけ、初めて逢ったこの家族に心からの親しみを感じ、弟の人生に大きな影響を与えてくれたことに感謝した。

 家で休息した後、トラックに乗ってソンブン家のオレンジ園を見に行った。まことに広い農園は畝と畝の間が運河のようになっていて、小舟がないと農作業は出来ないのだ。

 このオレンジ園の他にはバナナ園や椰子園まであったのには驚いた。
農園から帰った後は、美味しい昼食が待っていた。お爺さんお婆さんをはじめ、親戚まで集まって、
大歓迎を受けた。

 昼食が終わって家を辞す事にしたが、ソンブンはライトバンを用意、家族4人が同乗して遠いノンタブリーまで送ってくれた。 タイの人々の心の広さを垣間見せて頂いた一日の旅だった。

 

 

 

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木造のウィマンメーク宮殿

  バンクコクのドゥシット地区にある、ラマ5世によって造られた木造の宮殿である。
この宮殿へ行くには、チャオプラヤエクスプレスボートのテウェート桟橋を降りて、徒歩かトゥクトゥク
で行くしかない。

 しかし、時間はかかるがBTSのヴィクトリ−モニュメント(戦勝記念塔)駅から、515, 539, 542のバスを使えば宮殿前を通るので私はそれらのバスを使っている。

 この宮殿は一人では見学は出来ず、来た人を30分ごとに 1グループに編成してガイドがつき見学をさせている。 国軍兵士が厳重にガードした宮殿は美しく整備され、総チーク材で作られていて、さすがに立派である。

 宮殿内部には世界各国から集められた高級家具、調度品、食器類、人形など贅を尽くしたコレクションは特に見応えがある。

 日本の食器棚には「伊万里焼」、「薩摩の陶磁器」などが、丁寧に保管・展示されていて、ガイドは私に顔を向けながら、「いまり」 「さつま」の発音はこれでいいですか。となかなか話をそらさず、上手なガイドぶりであった。

 しかしガイドは英語なので内容の説明は10%ほどしか理解できなかった。日本の若者諸君、受験のための英語などに力を入れず、会話に重点を置いた英語を習得して欲しいと、自戒を込めて薦めたい。

 宮殿では 10:30から美しい池に張りだした舞台で、タイ文芸実演(タイ舞踊)が披露される。
国が主宰するタイ舞踊だけあって、選び抜かれた人たちが迫真の演技を見せてくれるので、十分見学する値打ちはあると思う。 タイ文芸実演(タイ舞踊)は午前と午後の二回の公演となっている。

  このウィマンメーク宮殿はあまり有名ではないので、観光客は少ないが、バンコク見学の穴場的のような存在であり、一度は行っておきたいものである。

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夕食の楽しみ

  バンコクで夕食を取ろうとする場合、有名店で王宮料理を食べることもあるだろうし、一度は食べてみたい燕の巣とかフカヒレなんかも良いかもしれない。
高級タイ料理を食べて、タイの料理の神髄に触れるのもまた良いだろう。

 私は残念ながら、そのような立派なタイ料理を食べたことがない。

 店を前から眺めると、大きな大衆食堂である。その店は夕方5時に店を開ける。
この店に来る客は中国人とタイ人の客が90%位で、残り10%が日本、ファラン(白人)のように見受けられる。

 いつも1時間も経つと、広いテーブル席も冷房の食堂もほぼ満席となる。ここは一般のタイ料理も中国系の料理も、自在に調理し食卓に運んでくる。

 この店のテーブルは4人~10人くらいと2種類で、どんなに贔屓目に見ても立派とはいえない。
テーブルだけではなく、食器にしてしかりだ。
だだっ広い食堂で、こんな什器やテーブルでなぜ毎日満席になるのか。最初は不思議であったが、今はそう思わない。

 席に着くとまず日本語のメニューが出てくる。(何で日本人と分かるのだろう)  メニューを見て
一人一皿などと、間違っても注文してはいけない。とにかく量が多いのだ。
クンパオ(海老焼き)など一皿注文すると15匹近くの焼き海老が出てくる。これなら話は弾みビールもうまかろうというものだ。

そして、とてもうまいし、 間違ってはいないかと思うほど安いのだ。 私など年金暮らしで、爪に火でもともそうか、という階層の人間には、豪華、高級、などの言葉はなじまない。
このように言葉で飾らなくとも、美味しくて経済的なタイ料理を、食べさせる店が一番良い店だと思っている。

 お帰りの時に、入り口上の看板を見ると、「緑の丼マーク」が吊されている。このマークはタイの料理評論家達が、「美味しい料理を提供している」と認定したマークである。

 このお店「 ウォンリー ランスアン 」 はBTSラチャダムリ駅を降りて南へ徒歩10分、左折して300メートル。 歩くのが苦手の人はラチャダムリ駅から13番、17番のバスに乗って、左折して最初の停留所で下車をするとよい。

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バンコクには日本食なら何でもある

 郷にいれば郷に従え と云いますが、タイに行けばタイ料理を食べてみたいと思う。それでも味付け海苔や梅干しなど、ご持参で敵地へ乗り込まれる、ご人もたくさんあるようだ。

 旅をして異国の珍味を存分に賞味しようと頭では思っていても、何十年も使い慣れた舌が、云うことを聞いてくれないらしい。

 そんな人たちが年間100万人近くも、タイを訪れるわけだから、バンコクには日本人に合わせたレストランがいたるところに存在する。
 特に日本人向けの店が沢山集まっているのは、スクムミット通り近辺と、シーロム通りとスリウォン通りの間のタニヤ近辺である。

 BTS サラデーン駅を降りてすぐの、右側がタニヤ通りで、この界隈には日本語が溢れかえっている。 
 タニヤプラザ3階には、回転寿司でお馴染みの 「子象寿司」 がある。 しかし、よく見てください。
日本のものと一字違いますね。 そうです日本では小僧寿司なんです。

 「子象寿司」 では、毎日11:30 から14:00までがランチタイムで700円ほどと少し高めですが食べ放題となります。

 回転するレーンには、日本と同じような、サーモン、まぐろ、ケンサキイカ、海老などの寿司だけではなく、茄子の味噌煮込みや鯖の塩焼き、ハンバーグからプリンなども仲良く回っている。

 私が入った時間は1時半頃だったが、入り口近くしか座席がなかった。レーンが回転台の一番  後尾だったので。残念ながら美味しそうな寿司は途中で消え去っていた。
本気で食べる気であれば、12時前に行って、満を持して挑戦すべきであろう。

 タニヤプラザの一筋前の通りには、牛丼の牛野屋がある。吉野屋ではありません。
店の構えや配色、看板はすべて吉野屋とそっくりなんですが、一字違うんですなあ。 この店の牛丼の味はバカに出来ないと、立ち寄る日本人の若手には評判がよろしいそうだ。

 ツアーでなければ、何でも食べられるバンコクなので、無理に梅干しやラッキョウなどを持ち込まなくても日本食はいつでも食べられる。  伊勢丹やプロンポンのフジスーパーへ行けば梅干しやラッキョウだって、いくらでも売っていますからご心配には及びません。





 

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京都を訪ねるチェンマイの高校生

  私は日タイ教育交流協会の末席を汚している。 とはいえ活動からは身を引き楽隠居をきめこんでサボっている。 ただ困ったことに、協会の代表から忘れたころに電話を受けることがある。

 タイから京都へやってくる高校生の市内案内をしてほしいとの依頼である。 受け入れ側の協会員は現職者が大多数なので、平日は人手のやりくりに困ることがままある。
どうにも人手のやり繰りがつかない時に、タイ語が出来ない、タイスキおじさんの出番となるようだ。

 タイ語がなめらかに話せなくとも、ガイドではあるまいし何とかなるものだ。外国人と関わる場合、緊張したり動揺したりするものだが、いつもタイへ行っているとタイ人を前にしても、物怖じしないので
つとまっているだけだ。

 神社仏閣を巡る事もするが、東山の高台寺や清水寺などは言葉には表さないが興味はなさそうだ。 それより金閣寺や平安神宮の方がよい。それは金色に光っていたり、鮮やかな朱色に惹かれるのだ。

 タイの寺院はすべて金色に光っていて、それでも足りず仏像に金箔を貼り続けている。そういうお寺の中に仏教を見いだしている生徒達だから、光っていなければ駄目なのである。

 引率の先生や生徒達に欠かせないのが、100円ショップだ。 タイ人を魅了するのはワンコインで全てのものが手にはいる。 ここに錯覚があることに気づかない。

 タイの一番高額硬貨は10バーツ(約28円)、このワンコインであらゆる品物を買えると錯覚をするのだ。 日本のワンコイン100円は、34バーツと気づかずに、どんどんお買いになる。

 大型電気店などでのデジタルカメラは、それはそれは大人気、タイにも同じ日本製カメラはいくらでもあるが、それでは駄目なのだそうだ。 日本で買う本物の日本製だけが純正日本製だそうだ。
この気持ちは分からないではないが、本当だろうか。

 京都駅前や四条河原町などでは、まっすぐ歩けない。それはお馴染みのティッシュを配っているからだ。 
 タイには無料でティッシュを配るなど考えられないことなので、前を行ったり来たりして、何度も無料で手に入れご満悦、男子生徒だけは欠伸をしてお待ちである。
  この無料で配られるティッシュペーパーも、チェンマイに帰れば必ず話の種にはなるのだ。

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タイ人が京都にやってくる

  タイの僧が日本に来ると、必ず男性の荷物持ちの若い衆がついてくる。今回の高僧についてきたのは、東北タイの中心部に位置する、マハサラカムの青年であった。学歴も僧籍もない田舎育ちの彼は、生涯初めてとなるだろう日本観光であった。

 なぜ彼が選ばれたかは、大阪に嫁いできていたタイ人が、私たちの協会と関わりがあって、高僧を推薦し、協会が認めたからである。
そこで高僧のお付きである荷物持ちに、彼女の弟が起用されたのだ。

 近鉄東寺駅に集まったのだが、あまりの寒さに震え上がっていたので、自動販売機で熱い飲み物を購入したところ、青年は驚いたの何のって、生まれて初めて自動販売機を見たのである。
彼にとって見る物すべてが驚きであった。

 鴨川の橋から眺めると、遠く北山が白くなっていて大騒ぎ、生まれてこのかた雪なんか見たこともない。 鴨川の水鳥を見て大興奮、なぜならご馳走がたくさん遊んでいたからである。

 無理もない、彼らが東北タイの田舎の畑で蛇などに出くわすと、一目見るなり蛇が青くなって逃げ出すほどである。
山でオオトカゲなどに出会うと、その夜の内に一家のおかずに変身してしまう。

 東北タイの市場を覗くと、コオロギの佃煮や芋虫の塩ゆでなどのご馳走が並び、蟻の卵、蛙などは
高級食材でかなりの高値である。
 タイが大好きな、タイスキおじさんでも食べられないものは、たくさんある。粋がって無理に食べることはない。

 彼は何でも興味を示しはしゃいでくれた。タイの田舎に帰って友人に自慢話が随分出来るだろう。
それでいい。彼のような学歴のない平凡な青年は、申請しても在タイ日本大使館が絶対にビザを発給しないので、来たくても日本には来れないから。

 日本人は一ヶ月くらいならビザ無しで、いつでもタイへいけるのに、タイ人にはなかなかビザを出さない。不法就労の問題はあるだろうが、日本は不公平な国だ。

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同じ僧でも 高僧ともなれば

  あるとき我々の協会でタイから僧侶を招く計画を立てた。恐れ多くも東北タイのルーイからイサーンでも有数の高僧をである。

 バスでも飛行機でも最優先で乗り込み、一番よい席に座る特権階級の人なので、ひどく緊張してその日を迎えた。
歓迎のセレモニーを終えて翌日から、京都各地の見学に入る。私は1日目の案内役をI先生と担当することになった。

 寒い冬の日、近鉄大久保駅から高僧を案内して、I先生の待つ東寺まで行くため電車に乗り込んだ。 こんなに緊張して大変なこととは思いもしなかった。
 知らなかったわけではないが、タイの僧侶は妻帯はもちろんしないし、それだけではなく女性には絶対触れてはいけないのだ。

 日本の女性にはお叱りを受けるかも知れないが、女性に触れるとこれまでの修行が無になる。との仏教の教えがタイでは堅く守られているのである。
バスや汽車などに僧侶が乗ってくると、女性は手を合わせて合掌し、座席を譲って距離を置くのだ。

 慌てましたねえ。朝の通勤電車は満員状態で女性もたくさん乗っている。黄色の袈裟を着けた高僧とはいえ、座席を譲る人とてなく、強い日本女性が一緒に押し合っているのだ。
こんな状況ではタイスキおじさんが、いくら間に立って女性と触れないように努力しても、痴漢と間違えられこそすれ、無駄な抵抗であった。

 東寺駅で待っていたI先生と通訳のタイ人を通して高僧に、詫びてみたが終わったことはどうにもならない。 知らない日本人にそのようなタイ仏教の教えを押しつける方が、おかしいことではあるのだ。

 通訳を通して帰ってきた高僧の言葉は、習慣の異なる国へ勉強に来たのです。 60年の修行は、いくら戒律とはいえ、消滅するものではない。全く気にしないから、大丈夫ですよ。とのたもうた。
さすが東北タイで崇められている高僧は、人間の器が大きい。

 そのあと、訪れた平安神宮で壮大な朱色の建物と庭園を見学し、赤い袴を穿いた巫女さんと一緒に写真に収まるなどは、普通の僧侶に出来る芸当ではない。
もし、タイのお寺に帰って、写真を誰かに見られたら大変なことになるだろう。 高僧は何でも勉強されているのだ。

 研修に来た高校生や大学生、教師などいろいろなタイ人を案内したことはあったが、これほど神経を使ったことは初めてであった。

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