« 2009年12月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年1月

深夜に現れた女性 その後

 バンコクに帰って、夕方からスリウォンにある、古式マッサージに行った。
この店はモンテインホテルの客が多いせいか、日本語が少しは出来るおばちゃんマッサージ師が多い。 

 私はうっかりおばちゃんに、ウボンでの出来事を話してしまった。 すると、おばちゃんは即座にそれは 「ピー」 ( 霊? )だと断定した。  何たることか、おばちゃんの話を聞きつけて、新たに4人のオバサンが嬉しそうな顔で加わった。
タイではよく「ピー」が現れるといいながら、興味津々で目が輝いている。

 死んだ若い女が天国へあがれずホテルの8階の高さで彷徨っていて、あなたの部屋に現れたのだ。 今 「霊」 は 、あなたに取り憑いて助けを求めているのだ、と真剣に主張する。 オイオイそんなことはあるはずがない。 と云うのだが、私の意見などにはまったく聞く耳を持たない。

 明日はお寺でどうしてもお祓いを受けねば、と勇み立っている。 私はいいから勝手に行って。
それにしても、タイの女性は 「ピー」 (霊)の話が本当に好きらしい。
ついに屈服した私は、翌日おばちゃん2人とラーマ四世通りのお寺へお祓いに行った。

 寺の近くでバケツいっぱいのお供え(食べ物ばかり)を買って、本堂にはいると、さまざまな悩みや願い事を聞いてくれる僧侶が座っていた。 
その前に正座をして事情を説明するのだが、私がそんな説明をタイ語をはなせるわけはない。

 すると私に代わって、彼女達が見てきたように、滔々と僧侶に訴えている。 どうも話は何倍も誇張されて、話している内に彼女たちは勝手に興奮していく。  当事者である私は、全く蚊帳の外で唖然として見ているだけであった。

 僧侶が私に直接聞いたのは、女の顔は? 手のひらは上を向いていたかそれとも下か?
何かあなたに云ったか?  そのあと、僧侶は厳かに断定した。 「ピー」 だ。
ついに私も日頃の行いが良く、若い女性に憑いていただいたのか。

 だが祓わなくてはいけない。 ピーには持参した供物を与えて、心を残さず天国に旅立たせるために、お経をあげなさい。 と僧侶について読経をするよう求められた。

 お経など日本語でも上げられないのに、タイ語でなんか出来るはずがない。 そこで僧侶に続いて少しずつ区切りながら読経をすることになった。

 読経が終わるとお祓いの水をかけられて、めでたくピーは私の身体から離れて、天国へ旅立っていったのである。

 この投稿は、信じない人や異論をお持ちの人も多いかと思うが、ネバダホテルで深夜現れた若い女性によって、事後このような展開があったので記してみた。私自身もあまり真実であるとは思っていないのだが。世に中には何があるか分からない。

|

早朝の市場と解けぬ謎

  ホテル前のバス停に人影はない。と言うことはまだバスが動いていないということだな。
ちょうど通りかかったトゥクトゥクを止めて 「ヤーパイ タラート」 (市場へ行きたい) と言うと、かなりのスピードで走り始めた。

 乾季の東北部では朝の気温は低く肌寒いが、払暁間もないムーン川からは朝霧が立ちこめて、非常に幻想的で情緒がある。
市場は川岸に沿って並び、大勢の人が地をはうかのごとく座って、それぞれの定位置で食材を並べていた。

 こんなに沢山の種類があるのか、と思うほどの野菜、魚類は川沿いの町だけあって、川魚が主体だが、名も知らぬ魚、川海老、ナマズ、蛙、ウナギ、亀などきりがない。

 完全に夜が明けてよく見ると、市場で売り買いしている女性の顔はカンボジア人、ラオス人の顔ばかりのようである。まあウボンはラオスともカンボジアとも国境を接しているのだから当然と言えば当然であろう。
 これらの人はラオ系、カメール系と呼ばれる、歴としたタイ国籍の人なので問題はない。

 今日も市場の外れに豆乳屋が出ていた。顔を見るなり「おはよう」と 日本語を多少操る中国系のタイ人オヤジである。 このオヤジの豆乳がうまいのだ。 熱い豆乳の中にココナッツミルクとコーン、さらに柔らかい裸麦などを入れて、わずか5バーツ(15円)だ。 身体も暖まりとても美味しい。

 ホテルに帰って遅い朝食を済ませて、まずいコーヒーを飲みながら新聞に手を出す が、文字が読めるはずもなく部屋に向かった。
エレベータのなかで、思い出した。昨夜の女性は何だったのだろう。

 改めてベランダを開けて眺めてみたが、8階の下はコンクリートのプール落ちれば即死だ。隣の部屋のベランダまでは1,5メートルほども離れている。
 隣の部屋から脱出するためなら、命の危険を冒すことなく自室の鍵を自分で開けばいい。

 私がうるさい音楽はどこだろう、とベランダから眺めたあと、施錠をしたのが22時頃だったから、
あの白い服装の女性は、いつから、どうして、ベランダにいたのだろう。
私が目的で、部屋の入ったのなら、なぜ午前2時までも寒いベランダで待っていたのか。

 何とも気味の悪い謎は、私の乏しい頭の配線をどう繋ぎ合わせてみても判明しない。

|

今まで長く生きてきましたが これは何だ

  夕食からホテルに帰って、広いバスルームでシャワーを浴びて汗を流した。 しかしトイレなどは大きな部屋の隅にポツンとあるので、落ち着かないことおびただしい。  大きければいいという物ではない。

 別棟の1階にあるイサーンディスコの、音楽や若者の歌い騒ぐ声が、8階の私の部屋にまで聞こえてくる。 テレビのNHKの受信状況が悪いのか見づらいので寝ることにした。
ドアのチェーンはした。不要な照明はけした。ベランダの施錠もした。 よし寝る!

 午前2時過ぎ、ノックの音で目が覚めた。こんな深夜に誰だ。 若いのが酔ってイタズラをしているに相違ない。  もう一度ベッドに入ってウトウトしているとまたノックの音がする。 イタズラにしても、こんな時間に悪質だ。 丑満時ではないか。

 そうか従業員かも知れないと、ドアの小さなミラーを覗いたが、人影は見られない。 チェーンをはずしてみたが、長い廊下に誰もいないし物音もしない。
不審に思いつつベッドに戻ってしばらく、またもノックだ。 もう完全に目も覚め頭もさえた。

 耳を澄ますと、どうもノックは廊下ではなく、ベランダのほうから聞こえるような気がする。  
そんなことあるはずがない? ここは8階のベランダだぞ。

 気味は悪いが、窓に近寄ってカーテンを開いてみた。 いた!  20歳くらいの女性がノックを続けながら、ガラス戸を開けて欲しいと云っている。
一瞬迷いを覚えたが、女性なら大丈夫か。 私は思いきって施錠をはずし、ガラス戸を開けた。

 白い靴、白いワンピース姿の女性が、小さな声で コト−コトー (すみません すみません)と言いながらベッド脇を通って、廊下に向かったので私は思わずドアのチェーンをはずすと、蚊の泣くような声で、ありがとう。と言って静かに去っていった。

 やれやれ、こんな一幕があったが、その後 朝5時までぐっすりと眠る事が出来た。

|

ホテルに紹介されたホテルは

  ライトーンホテルのフロントから、電話で照会があり依頼を受けていたためか、ネバダグランドホテルでは、とても好意的な応対をしてくれた。
ボーイに案内されて部屋に入って驚いた。とにかく部屋は広いし、重厚な家具は高級感を誇っている。

 更に驚いたのはバスルーム。 広すぎてトイレなどは隅っこにポツンと置き忘れているようだ。
トイレと浴槽までの間には、卓球台を置いてもよさそうなほどの広さなのだ。

 しかし良いことばかりではないぞ。最初だけだったが水道の水にやや濁りが見られること、ホテル周辺に気軽な夕食を摂るところがないこと。である。

 そこで、近くのバス停から市内バスに乗り、市内の見学をかねて夕食に出かけることにした。
このバスは京都のバスのように、後部から乗って前から降りる方式なのだが、運転席の横に回転する鉄棒が設置されていて、料金箱に料金を入れて、棒を押さねば降車できない仕組みなのでとまどった。

 このバスは道路を一直線に南下し、ムーン川にかかる橋を通過して国鉄のウボンラチャタニー駅に向かう路線だったので、橋の手前の停留所で下車をした。

 橋の袂には大きな市場があって、予想外の食材が売られていて、いつも楽しませてくれるのだが、この市場は夜間になるとかなり広い屋台街に変身するのだ。 私が訪れた時間はちょうど市場から屋台街に模様替えする時間帯だったので、やむなく近くの国立博物館に寄ることにした。

 夜になると煌々と電球が輝き、沢山の人々が三々五々に集まってきた。私も近くのセブンイレブンで買ったビールを片手に、がたがたのテーブルにつき、あちこちの屋台から料理を運ばせて、存分に夕食を楽しむことが出来た。

 タイのビールは、ビアシン、ビアチャンなど、かなりの種類があるが、いずれも日本のビールよりアルコール度が高い。 これはタイでは、ビールを入れたコップに氷を入れて飲む習慣がある為である。

 コンビニで冷やしたビールをコップに入れて飲み始めると、近くの屋台の人がわざわざ氷を入れてくれるので、ギンギンに冷えたビールを飲むことが出来る。 氷を使用するのでアルコール度は、それを見越して親切に高めにしてあるのだ。

 帰途はバスの回数も少なくなってきたので、トゥクトゥクの乗ることにした。 2月10日、今日の京都は立春を過ぎたとはいえまだ寒いことだろう。  涼しい風に吹かれて、気持ちよくホテルに帰った。


|

ボンラチャタニーのホテル探しは

  バスに乗車して2時間は経ったろうか、今日もさっそく検問である.
乗り込できた警官は3名で、手際よくそれぞれ客のIIDを確認していく。私の所ではニコッと頷いただけで通過した。 パスポートを見なくても私のように善良なツーリストは、一目で見分ける事が出来る貴方は良い警察官だ。 

 バスは予測した時間にほぼ近い午前10時35分に到着した。  この都市がタイで人口第三位の、ウボンラチャタニー(通称ウボン)である。

 人口第二位のナコンラチャシマ(通称コラート)に次ぐ大都市なのでさぞかし賑やかなことと思っていたが、質素な田舎の町の様相を呈していた。(ちなみにチェンマイの人口は第四位)


 ただウボンが他の都市と違ったのは、空港が市の中心近くにあり、歩いて行ける距離にあることと、独自のバスを運行していたことである。このバスは中型ではあるが本物のバスであった。
他の都市ならば、小型のトラックの荷台を改装して、これがバスだ。 と言っているのに本物だった。

 イサーンの旅の最後の夜なので、ウボン随一の高級ホテルであるライトーンホテルをめざした。
これまでは、市場やムーン川に近い私にとって手頃なホテルばかりに泊まっていたが、ウボン随一の高級ホテルかあ。

 身の程もわきまえず訪れたライトーンでは、私の姿が見えるとすぐ、ボーイの敬礼に迎えられて、フロントへ誘われた。
 つたないタイ語で部屋はありますか。と尋ねると、気の毒そうな顔で今日は満室です。 これだ。

 高級ホテルにしようなどと、生意気な考えを起こすからこうなるのだ。
そこで困ったときの隠し球、日本のタイ語教室でタイ人に書いて貰ったメモ 「良いホテルがあったら紹介してください」。を出すと、フロントの女性は即座に市内地図をだして印を付た。そして印の横にホテル名を書いて手渡してくれた。

 紹介されたホテルは NEVADA GRAND HOTEL と書いてあったので、念のためタイ語でも書いてもらった。(トゥクトゥクの運転手に見せるため)  しかし、この心配も杞憂の終わった。

 気の毒に思ったフロントの女性は、従業員を呼んでネバダグランドまで送るように指示をしてくれた。 ここで私は大きな送迎用バスの無賃客となった。 さすがは高級ホテルである。


 

|

ムクダハーンの朝

  夜明けを告げる野鳥がひとしきり鳴いて、目覚めたのでカーテンを開けてみた。
ラオスの山並みの一点が明るくなり始めて、次第に朝焼けの気配が広がり始めた。思う間もなく大きな太陽が顔を出して、朝の開幕を告げた。 本当に綺麗だ。

 100メートルほど離れてダナンマーケットがあったので、散歩をかねて偵察に出向いた。
広大な食材ばかりの市場で、上品なものから虫やトカゲ、亀にカタツムリまで顔を揃えていて飽きることなく時間は過ぎていった。

 市場はその町の表情が色濃く表れているので、買い求めることは全くないにもかかわらず、よほどのことがない限り、見に行くことにしている。

  チェックアウトをした後、ホテルの近くを走っていたトゥクトゥクを止めて、サタニーコンソン(バスターミナル)と言ったのだが、全く通じない。 それならと、ボーコーソーまでというと意志が通じた。

 バスターミナルのことを、サタニーコンソンとも云うし、ボーコーソーとも云う。 使ってみるとイサーンでは、ボーコーソーを使う方が相手に伝わりやすいようだ。

 ターミナルからウボンラチャタニーへ行くバスに乗ると、さっそく車掌が切符を切りにやってきた。
「ウボン」まで というと60バーツ(180円)だったので、今日のバスも約3時間はかかりそうだ。

  普通バスが町や村々で停車して、田舎の人達の暮らしの様子が垣間見られるのは楽しいのだが、私の年ではバスの移動は最近5時間くらいがリミットなのだ。 3時間なら安心だ。

 今日の行程もメコン川に沿って南下する部分が多いと見えて、沿道にはトウモロコシ、西瓜、煙草などの栽培が多く見られ、おまけに何故か木炭もたくさん売られていた。

 行き交う大型トラックには、今にも横転するのではないかと思わせるほどの、砂糖キビを積んで轟音を響かせて去っていく。 コンケーンあたりの製糖工場へ運ばれるのだろう。

 遠足の小学生が炎天下、先生を先頭に2列に並んで旗を立て、整然と歩いていく。
日本の生徒なら、こんな暑さのアスファルト道路を2列に並んで歩かせるなど、怒鳴ってもすかしても至難の業なのに、タイの生徒も先生も偉い。

 タイの先生は社会的地位が非常に高く、権威ももちろん高い。 そのために、生徒も保護者も、先生を信頼して、その指導を素直に受け入れているのだ。 羨ましい事ですねえ。

|

プロイパレスの町一番はどうした

  夕食をすませてホテルの部屋に入って異常を感じた。小さな虫が飛び回っている。
何だこれはとよく見れば、無数の蚊の群れなのだ、何が町一番のホテルだ。 怒り心頭レセプションへ行って部屋の変更を迫った。 私の部屋近くは、隣の部屋も向かいの部屋も蚊の養殖をしている。

 こりゃあかん。もう一度レセプションに出向き殺虫剤をすぐ用意するように、抗議をして廊下で待つこと10分、 私の部屋の前に立ったのは幼い少女で殺虫剤を手にしてオドオドとしていた。
子どもだったら、むげに怒鳴られることはないだろう。との見え透いた行動だ。

 幼い子どもにさせるわけにもいかず、手にした殺虫剤を部屋とロッカー、浴室などにまき散らしていたら中味が無くなった。 部屋が煙るほど噴霧したからもう大丈夫。後は部屋から出てしばらく部屋はそのままにしておこう。

 行くところなく、食堂のオヤジに聞いてマッサージに行った。今日のマッサージは特別だ、まるでアクロバットさながらの、柔軟体操の練習ではないか。これでは年寄には酷というものだ。
今日は鬼門とみえて、何をやってもうまくいかないようだ。

 早々に切り上げてホテルに帰ると、ロビーでは綺麗な調べが流れていた。 ん、 これはどこかで聞いたことがあるぞ、女性がタイ語の甘い声で歌っているのは 「アカシヤの雨」 続いて「雪の降る町を」
であった。

 酔っぱらってその歌を口ずさんでいると、それを耳にしたピアノのお兄さんは、前奏から奏で直して女性歌手に繰り返し歌わせてくれた。これもサービスだ。

 部屋の帰ってみると浴槽に10匹、洗面台に16匹、ベッドのシーツの上に20匹ほどが討ち死にしていた。まだまだいたがバカらしくなって止めた。蚊は白い色の上で死ぬのが好きらしい。

 だが、就寝後全滅したはずの敗残兵の、逆襲に遭おうとは思いもよらなかった。なにが町一番の高級ホテルだ。





|

ムクダハーンの町では

  町から5㎞ほど上流に完成して運用をはじめた友好橋は、人も含めて物流を一変させたようだ。 これまで小さな船を使って移動していたのが、立派な橋が出来たので外国人などは、橋のイミグレーションを使わないとラオスへは入国できなくなってしまった。

  ムクダハーンのバスターミナルから、ラオスのサワンナケートへ行く国際バスが運行されていて、これに乗れば橋のイミグレーションに寄って、タイ側、ラオス側の手続きが簡単に出来 200バーツ(600円)あれば入国できるとのことである。

 メコン川の畔をインドシナマーケットを目指して歩いていると、竹をぶつ切りにしたような砂糖黍を搾り器にかけて、絞り汁を集めている屋台に出会った。
この絞り汁を氷と共にビニール袋に入れて、10バーツで売っている。

 汗をかいて喉が渇いていたので一袋と、横の屋台で餅米の焼きおにぎり(カオニャオヤーン)2個を買って、川岸のベンチで涼風に吹かれながら口にすると、なかなかいける。初めて飲むほの甘く冷たい砂糖黍ジュースは疲れたときには最高であった。

 現地の人だけが利用できるラオスとタイを結ぶ船が着くたびに、同じ肌の色をしたタイ人とラオス人が、大きな荷物を持って自由に乗り降りしている。こんな光景を見ていると私まで彼らに紛れ込んで対岸に渡れそうだ。でも日本人なんかが船に乗れば、すぐに外国人とばれてしまう。そんなに違いはないと思うのだが。

 夕暮れが近づきホテルへと帰り始めると、大きな通り全面を使った大屋台群が出現していた。この屋台では驚くほど多種多様な料理が作られていて、どれを見ても美味しそうなのだが、私の夕食には食べられないようである。

 どこを見ても座る場所がない。多くの人達は自宅の夕食に、できあがった料理を何種類も買って、ビニール袋を下げて我が家に帰るのだ。これなら奥さんが、今夜の夕食は何を作ろうと考えることはない。 朝は朝食用の屋台へ行けばいいから、とても合理的である。

 だから旅行者が買っても、部屋のテーブルをべたべたに汚しこそすれ、何の風情もなく味気ない思いをするだけなので持ち帰れない。屋台街は見るだけである。

 炭火で煙と匂いをまき散らしている食堂に入った。イカや蟹を焼く匂いは何でこんなに食欲をそそるのだろう。
 当然 焼きイカ、世界の三大スープと云われるトムヤムクン、カオパットクン(海老入り焼きめし)、ヤムカイケム(塩ゆで卵のサラダ)、ビールが夕食である。こんなに食べられるわけはなく、たくさん残した夕食は770円だった。

 オイルショックで日本にタイ米が輸入された時期があった。日本人はこのご飯を食べて、こんなまずい飯が食べられるかと云って、タイ人を悲しませたが、タイで焼きめしを食べると、こんなにタイ米が美味しかったのかと驚かされる。

 日本はお米を炊くが、タイはお米を蒸すからだ。そんな違い(文化)も理解しないで、まずいまずいと云っていた事を今になって反省している。

 タイ米の餅米を蒸した「おこわ」をカオニャオという。これはイサーンの主食だが、これを一口サイズに手で握り、塩辛の汁などを付けて食べると、臭いも強いし辛いのだが、病みつきになるほどうまい。イサーンへ行ってで焼きめしやカオニャオを食べなかったことは一度もない。

|

ホテルに落ち着くまでの一苦労

  バスターミナルでメモ用紙に一筆書いた。 「 PLOY PALACE HOTEL 」 、このホテルは宿泊を予定しているホテルだが、何か気になって書いたのである。

 客を送ってきたトゥクトゥクの運転手に、プロイパレスホテルまでいくらで行くかと聞くと、50円で行くと答えたので乗り込んだ。
しばらく走って停車し、何か云いながら手を出したので20バーツを手渡そうとしたが、どうもそうではないらしい。

 言葉が理解できないので、ムクダハーンまで乗ってきたバスのチケットを出してみたが、もちろん違うし。 ひょっとしてホテルの名前が知りたい?
 プロイパレスホテルは先ほど告げたし、それで20バーツと答えたのだからそんなことは無いはなあ。

 どうやら走り始めたのは良いが、ホテルが分からないのだそうだ。今日の私の勘はさえわたっているのだ。 私は少しも騒がず、おもむろに 「 PLOY PALACE HOTEL 」 と書いたメモを渡す快感は得がたいものだ。
ウンウンと頷いて走り始めてまた止まる。

 今度は何やねん。 私に聞かず下校途中の女の子を呼び止めて、彼女たちにメモを示して何か聞いている。彼女たちはメモを見るとタイ語で 「ペラペラ」 としゃべって終わり。
彼女たちはタイ語で私の行きたいホテルを、運転手が理解できるように告げてくれたに違いない。

 しかしまあ、自分は読めなくても彼女たちなら読めると考えたことは一応誉めておこう。
私が車上から「ありがとう」と声をかけると、手を振って見送ってくれた。 旅は何があるか予測は出来ないが、楽しいものだ。

 後刻ホテルでこの話をすると、私がプロイパレスと云ったのだが、地元の人は 「ポーイパリー」 と
呼んでいるので理解が出来なかったのでしょう、と言うことであった。そんなこと云われてもなあ。

 このプロイパレスホテルは、この町では一番のホテルとガイドブックには出ていたが、ガイドブックの紹介はあまり信用が出来ない。
さて、レセプションで一泊の料金を聞くと 4,500円と言う。 高い! 怪訝な顔をすると改めて料金表を出して見せた。

 まあしゃあないか。 と諦めて1,500バーツを出すと、500バーツを返してくれた。 なんだかよく分からないが、デポジットを多めに預かろうとしていたようだ。  最初から3,000円といえば、気分もよかろうが、訳の分からんことをするな。

 荷物を部屋の置くと、すぐさま外出した。チベットを源流とするインドシナ半島随一の、大河メコンを見るためである。
乾季のメコン川は流れる水が少なく、砂州が広がって対岸のラオスが、すぐ近くまで忍び寄っているように見える。
 
 上流を見ると景観を台無しにする大きな橋が造られていて、車がラオスに向かって走っていた。
この橋が、タイ・ラオス第二友好橋と名付けられた、ベトナムまで続く幹線道路である。日本も経済援助をしているそうだが、自然破壊の感は否めない。


|

いざ、ムクダハーンの町へ

  イサーンのムクダハーンの町、タイには似合わぬ何と響きのよいエキゾチックな町の名前だろう。 ローイエットを出たバスは相も変わらず小さなボロバスだったが、なかなか風情があり、それなりにスピードを出して頑張って走っている。

 イサーンの大地は赤い色をした粘土質の土ばかりで、およそ耕作には向きそうもない。わずかにしがみついたように、粘土の割れ目から出ている雑草を、水牛や白い牛が舐めるようにあさっている。

 1時間も経ったであろうか、砂糖黍やパインの畑が広がってきた。太古からメコン川の氾濫などで、育まれた肥沃な土地に近づいたに違いない。 これに付随するように高床式の家も増えてきて、床下ではお婆さんが織物をしているような光景も見かけるようになってきた。

 貧しいと云われるイサーンでもメコン川の恵みを受けて、地味のいい所では、比較的生活の匂いに余裕が感じられる。 そんな村を通り過ぎると、初めて山が見えてきた。

 絶えて久しい山を感激の面持ちで眺めていると、山すそには巨岩がごろごろと奇怪な風景を見せていて、岩の間の桜が満開であった。(タイでは2月頃、桜によく似た花があちこちで美しく咲き乱れる)

 峠を下りたところでバスは止まって、6人ほどの警官がどやどやと乗り込んできた。 国境が近づくと検問が行われるのだ。
全員のIDカードを調べて、ややこしそうな荷物は片っ端から開けていく。

 私がパスポートを見せると、顔とパスポートの写真を見比べて、ニヤリと笑って終わり、しかし私のパスポートは有効期限が10年有効だが、期限が切れる頃は顔がこのままではあるまい。命さえもおぼつかないぞ。  日本ではIDカードなんか持たなくても生活できるのに、この国では通常の生活が叶わない。日本は平和な国なんだ。

 そういえば日本では一般に身分証明書なるものがない。パスポートは写真付きなので使えるが、健康保険証や介護保険証には写真がなく、公的な使途以外には使えない。
 運転免許証など老いて返上したら困ってしまう。 最近私は写真付きの住基ネットのカードを身分証明書の代替として使用している。

 バスの車内を改めて見渡すと、今日もやはり色浅黒いラオス系の人ばかりだ。イサーンの田舎を外国人である私が一人乗っていても、自分では全く違和感を感じないのは不思議である。

 午後1時40分に予定通り、町の郊外にあるターミナルに到着した。これからがホテル探しの時間だ。
 

 

|

町の中心はプラーチャイ湖

 ローイエットの町は、池 (プラーチャイ湖)を中心に放射状に広がったような街であった。
ホテルに入ってまずは街の探索をと、(プラーチャイ湖に出かけてみたが、湖というより大きい池と呼ぶ方がふさわしい、住民の憩いの場であった。

 この池公園では、売店のおばちゃんから餌を買って、大きな池に餌を撒く人が多い。すると水面が盛り上がるほどの魚が顔を出してきた。生意気に髭を生やした鯉と鯰がはね回っている。
お母さんと一緒に餌をやる子どもの姿が実に可愛らしい。

 木陰の芝生の上で教科書を広げて勉強している感心な中学生がいた。こんにちはと声をかけて、よく見ると教科書は「理科」の教科書だ。 ドキッ、 理科は好きですかと聞くと、案の定好きではありません。そうでしょうな。

 感心な中学生のTシャツには日本語で「わらいすぎ」とプリントされていて彼女にはよく似合っていた。

 なんだかとても印象の薄い街である。 特記事項無しだな。

 翌朝8時にチェックアウトして、トゥクトゥクでバスターミナルまで乗ると80円だった。 近くにいた高校生にムクダハーン行きのバスの時間を聞くと、なんと10時までないらしい。
昨日2~3時間の距離だから頻繁にバスがあるだろうと、となめてかかっていたことを後悔した。

 ここで私のいつもの作戦が始まった。バス関係の人、うろつく警察官、近くのおばちゃん、など手当たり次第に 「私はムクダハーンへ行きたい、バスはどこに停車しますか」と聞いて歩いた。 これを旅の恥はかきすてというのだ。

 これが布石である。このあと私は推理小説を読むのにに熱中するのである。
10時近くになると、周りの人の視線がこちらに集まってくる。 9時50分、おばちゃんがたまりかねた様子で声をかけてくれた。

 ムクダハーンへ行くバスが来たよ。 エッどのバスですか。  ターミナルに並んでいるバスではなく離れたところに停車するのだそうだ。 声をかけておいてよかった。 ありがとう。

 そのバスの乗車口で切符を売っていたのは、偶然にも昨日ホテルを尋ねたお姉さんだった。
こんにちは、今日はどこへ行くの?  ムクダハーンだよ。  160円だよ気をつけてね。

 最近私は分かるのだ。田舎のバスは20バーツで約1時間の距離を走ることが。しがってムクダハーンまで約3時間、午後1時に到着か。

|

タイの南部では

  イサーン横断の旅からは、少々話題は横道にそれますが、今日の朝日新聞の記事を見て、何も分からないが憂いている。

 タイは微笑みの国と呼ばれるほど穏やかな国であり、当然タイの人達も、御仏を敬う優しい国民だとかねがね思っている。
私はタイを旅することは多いが、これまで一度しか南部に足を向けたことはない。 それは南部が危険だからである。

 タイの国民6,400万人のうち80%が仏教徒で、そのほか仏教徒以外の一つにイスラム教がある。 このイスラム教の人たちの殆どが南部のマレーシア国境に近いパッタニー、ヤラー、ナラーティワートの3県に居住している。

 どのような事情にあるのか私には詳しいことはよく分からないが、イスラム系の人達はタイから分離
独立を目指して動いているそうだ。
今日の新聞 (2010,1,13) によれば、南部3県では2004年から爆弾テロや射殺事件によって約4,000人の犠牲者が出ているようである。

 イスラム過激派のターゲットは、タイ国軍や仏教徒、それに準ずる民間人となっている。 となると
信仰心が薄くとも私達も当然この中に入っているのだ。
有名観光地となっているプーケットも南部には違いないが、イスラム過激派が活発な南部3県からは離れているので、一応安全であると云われている。

 3県には犠牲者の数が増加の一途を辿っているので、仏教徒の自衛組織が出来ているが、指揮系統があいまいで規律に欠け、拷問や暴力、レイプなどが多発してまだまだ危険であると記されていた。

 ハジャイからソンテウで南下したときの、陽気なイスラムの人々、南部で一番美しいと云われたモスク、パッタニーの小学校ではスカーフを頭にした子ども達の笑顔などに接して、もう一度機会があればぜひ訪ねてみたいと思う旅であったが、なかなか事態は解決しそうではない。

 タイのバンコクやチェンマイ、コラートなどでは、このような南部の出来事はほんの一部しか知られていない。
タイでは日本のように、新聞が宅配されて読むという習慣がないので、危機意識が全体に行き渡らないのかも知れない。

 行きたいところがたくさんある南部地方なので、和解の成立を心から願っている。 



 

|

マハサラカムからローイエットへ

  <お断り>   この投稿は「イサーンの中部を横断してみる」の続きの投稿です。順序を間違えましたことをお詫びします。


 金魚の糞であった私が覚えている、マハサラカムの出来事。
スチン先生の紹介で、大学がよく利用するホテルに泊まることになった。山の中腹にある綺麗なホテルであった。  疲れていたので早々にベッドに横になり夜半に目が覚めた。何かが部屋の中でゴソゴソ動く気配がする。

 暗闇の部屋で何が動いているのか、目は完全に覚めてしまった。 どうしたもんだろう。
その時突然。 「ゴー トッケー! トッケー!」と とても大きな声で叫び声がした。 驚きましたねえ。
こんな不気味な鳴き声を朝まで聞き続けなければならないとは。

 実はこれはトッケーと言う名の、大型のヤモリ (爬虫類) なんです。夜が明けて明るくなったので、声のした戸棚の裏を怖々覗いて見ると いた! 色鮮やかな30㎝もあろか、という大きなヤモリがこちらをにらんで、大きな口で威嚇していた。

 こやつは夜、ゴキブリやネズミなどの小さな虫や動物を 捕食していて、宿泊している人には危害を加えないそうだ。 だが、捕まえようとすると噛みつかれるので、うかつに手は出せない。
爬虫類は苦手という、私などには困った存在であった。


 翌日はターナシン国立舞踊学校の見学をした。中学生、高校生の年齢の生徒が800名在籍して、伝統のタイ舞踊を学んでいる。
まず教室では実技の授業であったが、よくこれほど身体が曲がるのだろうかと思うほど、上から押さえつけられて可哀想なほどであった。 3年間毎日続ければかなり上達するらしい。

 別棟の教室では伝統楽器の授業で、タイらしい調べが部屋部屋で聞こえていた。
見学がひと通り終わると、野外の舞台に案内された。 タイ舞踊を披露してくれたのは高校2年生の生徒であった。

 私達の席はステージの前にしつらえてあり、審査員のようなテーブル付きの特別席である。生徒達が奏でる楽器の調べに乗って踊り始めた。 綺麗な衣装に身を包んで踊る様はまさにプロの卵であった。

 その間に、私達のテーブルには、タイ料理が並びビールさえも出てきた。 どうか食事をしてください。と云われたが、ちょっと待ってえな。
 生徒は授業の一環として踊っているのに、食事なんて出来ますか。先生曰く、タイ舞踊は食事している人の前で踊ることが多い。これも勉強です。 そうですか。では

 マハサラカムでの思い出である。 今回はこのまま通過して、ローイエットの町で宿をとる予定である。

<前項> 「ボロバスはローイエットへ」に戻る。

|

ボロバスはローイエットへ

  マハサラカムを後にしたバスの乗客は、全員が色浅黒いラオス系の人ばかりで、服装の特徴もおもしろい。 11時少し前にローイエットバスターミナルに到着した。

 このイサーン中央部に位置する小さな町は、大きな円形の湖を中心に広がっていて、織物の産地としても有名らしい。
我々が京都でタイ料理教室を開くとき、講師として招く事のあったピンケオさんは、この町の出身だ。

 彼女に云わせると、タイ国内の三大貧困地と云われるこの町も、人情味厚く風光明媚な住みやすい町となる。  私は彼女が推薦してくれた町一番のホテル、ローイエットシティホテルに泊まる心づもりである。

 バスを降りてトゥクトゥクの運転手が、我がちに高値をふっかけようと、群がるのをを避けるため、 いったんトイレに行って我が心を鎮め、体制を整えてから、誰が尋ねやすいかそっと周りをを窺った。
ターゲットは、到着したソンテウの客からお金を集めているお姉さんがよさそう。

 そっとお姉さんに近寄り、ローイエットシティホテルへはどう行けばいいでしょう。と尋ねると、やはりかなり距離があるらしくトゥクトゥクにしなさい。と返事も聞かず、あたりを見渡してから、一台のトゥクトゥクを呼んで、ホテルまで30バーツで行くように言いつけてくれた。 彼女の友達 なんだそうだ。

 ローイエットシティホテルはこの町にはそぐわないホテルであった。ボーイが飛び出してきて私の荷物をフロントまで運んでくれたがが、私は予約客ではない。

 空いた部屋はありますか。一泊いくらですか。といつものように尋ねると、有りますとにっこり。
料金はと聞くと、 口ごもりながら、お二人ですね。 と聞き返す。 残念ながら一人ですよ。
よけいなことを聞くな。でも彼女は部屋とベットの大きさを考えてのことだから仕方ないか。

 結果的には豪華なツーベットの部屋で、カーテンを開けば、目の前に金色に輝く大きな仏像がそびえていた。ボーイに聞くとブーラパ寺院のこの仏像は68メートルあって、タイで一番高いと話してくれた。
 この立派なホテルは朝食付きで2,900円だ、田舎に来るとバンコクより何でも安いのが有り難い。




 


 

|

イサーンの中部を横断してみる

 ドムアン空港を飛びたった飛行機は50分のフライトで、コンケン空港に到着した。このコンケンはイサーンには違いないが、学研文化都市として東北部の主要な都市である。 今回のイサーン横断一人旅のスタートはコンケンを起点にスタートした。

 空港から市内へのアクセスが分かりにくい。到着客は次々に迎えの車で去っていくのに、適当な移動手段が見つからない。
言い方は悪いが、タイでは権力を傘にきて、市民から嫌がられている警官を利用するに限る。

 タイの警察官は悪いとの話はよく聞くが、外国人にはことにほか親切であることを私は知っているのだ。 さっそくピストルと手錠を腰に、あたりを睥睨している警官に近寄り、バスターミナルに行きたいがどうすればいいかと尋ねた。

 どこまで行くのか。と言うので、ロイエットまでと答えると、その近くにいた不運な乗用車の運転手にオイ! バスターミナルまで30バーツで行け。   白タク運転手は何人かの客を集めて、稼いでやろうとの目論見もはかなく、私一人を客としてバスターミナルまで走ることになった。

 警察官が行き先を尋ねたのは、バスターミナルが長距離バスのターミナルと近距離バスのターミナルの二つがあるからである。

 広大な敷地を持つコンケン大学の前を通過して、車は普通バスターミナルについた。周りのバスを見てみると、窓全開のボロバス展示会とも見まごうようなバスばかりが集められていた。田舎へ向かうバスばかりなので、行き先表示は私には理解できないタイタイ文字ばかりである。

 近くのおっさんに 「ロイエットへ行ききたい」 と教えを請うと、発音が悪いのか首をかしげるばかり、
何度か言い直して、ロイエットを尻上がりに発音してやっと理解してくれた。 おっさんの案内してくれたのは、ひときわボロバスで珍品であった。 走るのかなあ。と思わず呟いた。

 中程の窓側に座る30代とおぼしき男性の横に座ると、外国人が横に座った。とガチガチに緊張して
車窓を眺めたり、下を向いたり落ち着きを全くなくしてしまった。ロイエットまで2時間くらい?
と声をかけると、ホットして頷いた。 ん、方言が強くイサーン語が通常だと聞いていたが 何とか通用するぞ。

 車掌のおじさんが切符を切りに来て、私のローイエットの発音を、何度も直してくれたがこれから後、色々な言葉では苦労しそうだ。

 8時30分にコンケンをでて、10時頃町らしい所に到着したので、隣のおじさんに、ここはどこですか。と尋ねてみると、「マハサラカム」 との返事であった。

 タイを訪れて3度目くらいであったか、弟を中心に5人くらいのグループでこの町にきて、言葉など全く分からぬまま、みんなの後を金魚の糞のように、トボトボと歩いたことを懐かしく思い出した。

 その時は、マハサラカム大学のスチン先生の案内で、色々な所を見せて頂いたが、自分の意志で動かない金魚の糞の旅では、覚えていることはわずかしか残っていない。  続く
 



|

タイの東北部

  タイの東北部のことを 「イサーン」 という。
タイは大きく北部、東北部、中部、南部の四つに分かれているが、このなかで東北部だけはイサーンという別名で呼ばれ面積も一番大きい。

 これまでイサーンと、特別な名前で呼ばれることを不思議に思い、少しは調べてみたのだが、東北部を支配していたモンクメール王国のイーシャーナからとったとか、古代インド語の東北を意味するイーシャーナから伝わったとかの諸説があるようだが、づーっと過去のことなので定かではない。

 難しいことは分からないが、中国の雲南省あたりから南下した民族や、カンボジアからの民、ラオ族などが入り交じって、イサーンを構成しているように思える。チェンマイやバンコクの人たちとは体型も
顔、皮膚の色も異なっている。 そして食料の自給率も低く貧しい。

 イサーンの広大な大地は、ラテライトと呼ばれ鉄分を沢山含んだ赤土が多く、保水力は殆どない。したがって地味が非常に痩せた物となって、耕作には全く不適である。

 性格は人にもよるが大まかには優しくて思いやりがある、人なつっこい、好奇心が強い、すぐ調子に乗る、深く考えない、わがまま、などと言うところが全体的に見られる傾向のようだ。こんなイサーンなのだが、訪れてみると非常に心が和み、居心地が良いので私は大好きだ。

 昨日の(2010,1,4) 朝日新聞に、こんな見いだしの記事が大きく書かれていた。
 「欧米人貧困婿入り タイ・イサーン」  内容はタイに住む欧米人でタイ人女性と結婚している
10万人のうち、半数以上はイサーンに住んでいる。と書かれていた。

 イサーンの女性と結婚して、貧しい村で母国から届く年金でのんびり生活しているのだ。祖国では年金で生活するのは、なかなか苦しいが、タイで年金を受け取ればイサーン人の月収の6倍以上に相当するので優雅な生活が送れる。

 ただタイでは、外国人名義の家は持てないから奥さん名義にせざるを得ない。そこで起こるいろいろな問題も織り込み済みで、楽しい生活をしている人が多いようだ。

 こんな例が多くなってきて、若い女性の外国人との結婚熱が高まり、お互いに年齢差はあまりこだわらず、家族共々結婚希望は増加しているようだ。 
 欧米人だけでは有りませんぞ、日本人でも今や欧米人には負けてはおりません。

 

|

メークローンの町も限りなく魅力的

  カンチャナブリーのクェイ川から流れくだった水がその後、メークローン川と名前を変えて、はるばる、このタイ湾までやって来たのだ。
 ここからは国鉄南本線の通る町ラーチャブリーにもバスを利用すれば簡単に訪れることが出来るし、メークローン川に沿ってソンテウを使えばアムパワー水上マーケットも近い。

 一年中見ることの出来る蛍の群生地も有名で、外国人の観光客も多いと聞く。しかし一度は行ってみたいと思っていたのだが、いまその気は失せてしまった。

 それは2ヶ月ほど前に、何気なくテレビを見ていたら、若い女優がマハチャイやメークローンの旅をしている内容で、放映されていいた。
 市場に入っていくとんでもないディーゼル列車や鄙びた漁村などの紹介は、そうだそうだと見ていたのだが、その後がいけない。

 メークローン川の上流で泊まった宿がいけない。綺麗なホテルの部屋、豪華な宮廷料理、高価なマッサージなどなど、そんな光景を放映しながら調子に乗って、美味しいですね。素敵なお部屋ですね。 とは、この地の素朴さを愛でて旅する庶民の気持ちを逆なでするような内容だと受け取った。

 その豪華ホテルは、私達が日頃宿泊するホテル料金の5倍を上回る料金であった。
マハチャイやメークローンの旅をテレビで紹介するなら、それ相応のホテルで宿泊せなあかん。
どうせスポンサーが付いて、カメラが入った、のんきな若い女優の旅であっても、配慮に欠けた内容であったように思う。

 若い女優には何の罪もないが、綺麗な自然を土足で踏みにじられているような思いを抱いて、このブログを書くのに躊躇してしまった。 老いのせまった年金暮らしの、戯言と聞き逃して頂きたい。


  

|

バーンレームからメークローンへ

 マハチャイからターチン川を渡って、対岸のバーンレームへ行こうと渡船を待った。渡船2隻が交互に行き来しているので、到着して待つ間もなく出発する。
到着する渡船が近づいてきた。なんと船が接舷する体制にはいると、バイクが十数台も前方を見据えて、血走った目で突撃準備をしていた。

 桟橋に着くやいなや、一斉に爆音をあげながら斜面の桟橋に突進して登っくる。何でそんなに急いでいるのか知らないが、はみ出して水中に落とそうになっているヤツもいるし、女性ドライバーも男性の中につ突っ込んでいく勇壮さ。 落ちろ落ちろと乞い希うが落ちないんだなあ。

 その後が自転車だ。これはおとなしい。 そして最後が我々徒歩のお客となる。 こんな楽しい渡船は約10分、料金8円で私達をバーンレームに運び上げてくれた。ここでもイカやエビ、小魚の干物のオンパレードであった。

 通りに出ると左側に薄黒い顔をした、人相のやや悪そうな輪タクが客待ちをしている。この輪タクは街をぐるっと回り、海の近くを走って元の所まで帰るだけ。 

 実は、ここからまだメークローンの街まで、もう一度列車に乗ろうと考えた。マハチャイメークローン線はターチン川で一端、線路が断ち切られ、川を渡るとその延長として別の列車が走るのだ。

 歩いて右へ5~6分、倉庫裏のような足場が悪い辺鄙な場所にディーゼル列車が止まっていた。
これが駅か? とても始発駅なんて云える代物ではない。1日に4往復の路線だから仕方ないか。

 バーンレーム10:30発、タイで一番の骨董列車に乗車してメークローンへむけ出発した。
田園風景、塩田、海老の養殖池、マングローブの林などが目を和ませてくれる。感受性が鈍化している私でも気持ちが優しくなってくる。

 時折見かけるブーゲンビリアの深紅の花が素晴らしい。でも窓から顔を出して眺めていると、日焼けと砂埃で真っ黒になるのでこれが辛い。

 サムットソンクラーン県のメークローンの町に近づいてみると、この街にも線路がない。
同じように列車の悲しそうな警笛に、やおら露店の群れは線路から待避していく。店の大きな日傘やテントも列車が通過するまで、人々が線路外に支え持っている。

 そして超低速の列車は11:10分に市場の中のメークローン終着駅に到着した。

|

マハチャイの街

  ディーゼル列車の哀願に答えて動き出した物がある。 窓から身をのり出して前方を眺めると、何と線路が見えないほどに市場が広がり、線路の荷を片づけテントを動かさないとディーゼル列車が通れないのだ。

 市場の連中は手際よく動かして、列車は遠慮がちに市場内の終着駅に入線することが出来る。
ディーゼル列車から降りて後方を見ると線路は魔法のごとく消えて、元の市場ができていた。

 市場の中のマハチャイ駅をでて、前の通りへ出ると港の匂いが充満していた。さすがに歴史ある漁港の街だ。通りを埋め尽くすように並んだ店先には、小さなイカの乾物(スルメになりきれていない)や干し海老が山積みにされていた。道路から小道へ入ると大小取れたての鮮魚だ。

 アジや鯖、サワラなどは顔なじみなので美味しそうに見えるが、大きな色鮮やかな熱帯の魚なんかは、食べようとは思わない。 

 この街の人々は中国系のタイ人が多いようだが、「写真を撮っても良いですか」と許しを得て珍しい魚や干物の山を撮ろうとすると、私も写せとポーズをとる人まででてくる。
陽気で楽天的なのである。
撮した写真を翌年持って行くと、大喜びで冷たいジュースなんかのご馳走になる事もあった。

 駅前の通りを右へ進むと公園がある。その手前を左に行くと、渡船があってターチン川の対岸まで渡してくれる。この渡し場の隣がレストランになっていて、ここの二階で食事をするのが良いだろう。
普通の食事もシーフードも充実しているし、トイレも利用できる。

 この街でトイレが使用できるのは、このレストランと公園の中の3バーツトイレ、さらには駅の2階にある職員用トイレくらいだろう。

 このターチン川の河口は、左から流れてくる運河と接していて、かなりの濁った水が淀んでいる。 ホテイアオイが繁茂し、常時船のスクリュウがかき回しているから、海底に住む小動物、プランクトンが巻き上がり、それを狙ってホテイアオイの葉の上は白鷺が餌場としていた。

 小魚などをうまく捕食するのが面白く、飽きずに見ていたら可愛い鰐まで遊んでいた。まだまだ見物がある。それは対岸のバーンレームまでの渡船だ。

 5分おきくらいに往復している渡船には、人だけでなく自転車もバイクも乗せている。

|

« 2009年12月 | トップページ | 2010年3月 »