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2010年5月

バンコクの日本語観光バス

 バンコクには日本語の観光ツアー会社が数社あり、どこも簡単に日本語で申し込みが出来る。したがって、日本人専用の電話で予約すれば集合場所が案内されて、ツアー料金は当日集合場所で渡せばいい。

 日本から直接ツアーで来ている場合は問題はないが、個人で遊びに来てアユタヤやダムヌンサドワク水上マーケットを見学に行きたい。とかバンコク都内の有名なところを回りたい。あるいはタイ舞踊を見ながらタイ料理を楽しみたい。などの希望を叶えるため、多岐にわたって催行しているのでとても便利である。

 料金は個人で行くより高めであるが、チケットはどうやって買えばいいの、とか料理はどうやって注文すればいいかなど、気を配ることがないので手軽である。

 例えば2時間ほどのチャオプラヤディナークルーズなら3000円、ヴッフェ付きのアユタヤ往復クルーズで遺跡鑑賞なら5500円、ニュウハーフショーの鑑賞1500円などメニューは非常に豊富なので、気軽に利用できる。

  私はツアーに参加することはあまり無いのだが、ツアーでなければ困難な場合や、夜遅くなるので一人で行くのは難しい。こんな時には利用することがある。

 非常事態宣言が出される前の2月下旬、日本語ツアーバスのパンフを何気なく見ていると、蛍を鑑賞するツアーがあった。この時期に蛍が見られるなら参加してみようか。ということでBTSサナームギラーヘンチャート(国立競技場)駅まで出かけた。    

 この終点駅近くのサイアム@サイアムホテル9階にある、ウエンディーツアーを訪れた。私は3度目の訪問であったが、ここの対応にはいつも満足している。昼休みだったので事務所には女性が一人だけいて対応してくれた。

 アムパワーの蛍を見に行くツアーはありますか。と聞くと、あることはありますが、と口を濁す。じゃあやってないんだ。 まだうちの会社ではパンフに載せていないのですが、土曜日、日曜日で、どうしてもという お客様が集まれば催行します。 と返事をする。

 では明後日の土曜日の予約状況はいかがですか、とたたみかけると、残念ですが希望は一人もありません。 

 このツアー会社がパンフレットにアムパワーの蛍鑑賞を載せないのは、蛍の季節ではないからだ。 熱帯の国なのでこの時期でもいることはいるが、数が少なく、客の満足が得られないのだ。 彼女は雨季に入ってから来られることをお勧めします。その頃なら何千何万匹の蛍で木々はまるでイルミネーションのようですよ。

Photo_3  話はよく分かりました。その通りでしょうね。 しかしパンダトラベルではパンフレットにアンパワーの蛍鑑賞を載せていますね。

はい、あの会社は先発のツアー会社ですから、と奥ゆかしい返事であった。

 コーヒーをいただきながらの、長話になってしまった。

  オフィスへ直接足を運ぶ人は少ないので、いろいろな旅の情報を集めるには出向く方が面白い。

 帰りにアソークでBTSから地下鉄に乗り換えサムヤーン駅で下車して、徒歩5分にあるマンダリンホテルへ行った。

 ホテルの二階に事務所を構えるのが、パンダバストラベルである。このツアー会社は日本語の定期観光では最も老舗だ。

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宴の後は身綺麗にしたいもの

 パノムワンからバスターミナルまで帰って、さっそくお礼にと本屋へ行ってみると、女性警備員が心配そうな顔で迎えてくれた。有り難う楽しかった。とお礼の言葉をかけると、ずいぶん気になっていたとみえて、魅力的な顔が急にほころんだ。

 さて、切符を買ってバンコク行きのバスを探していると、近くにいた流暢に日本語を操るバスの車掌が、離れて停車しているバスまで案内してくれた。出発までまだ時間があると、彼女もバスに乗り込み話し出した。

  女性ガイドは36才で、埼玉県浦和市の「Yさん」と結婚して子どもも一人いるのだがもう7年間も音信が途絶えているそうだ。
 電話も手紙でも連絡が出来なくなってしまい、もう諦めてはいるけれど、私も子どもの国籍も日本になっているしほんとうに困っているのです。

 二人が暮らしていた、タイの家も銀行に取られてしまったし、いま日本領事館で日本国籍を抜く手続きをしているところです。 日本の人を見かけたので思わず声をかけてしまいました。と云われてもなあ。
 
 浦和市の「Yさん」、後々まで責任を持ってあげないと駄目じゃあないですか。 逃げ出したにせよ、お子さんだって可哀想だと思いませんか。

 彼女は、私はこのバスには乗務しませんが、どうかいい旅をしてください。と一番前の席を用意して、同僚のバスガイドに、この日本人は私の知り合いだからよろしくと、申しし送ってくれた。タイだけではなく色々な国で、日本の強者どもが悲しいドラマを繰り広げているのだ。

 そうかと思えば、以前東北タイのナコンパノムという、寂れた町の食堂で働いていた女性に、貴方は千葉県浦安市の××親分を知っていますか、と尋ねられたことがあった。
 親分と意外な言葉を聞いて、だいたいの経緯は想像できたが、日本の男も悪いのがたくさんいるようだ。

 このたびの、パノムワン遺跡は交通が不便であるうえに、遺跡としての魅力に乏しくあまりお勧めは出来ない。 

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思わぬ展開となった

見るべきパノムワン遺跡は、非常に小さく狭いので、賑やかな方へ近寄ってみると葬式らしい。祭壇の設けられた講堂では、多くの黒中心の服を着た参列者が盛大に飲み食いし、子ども達はお菓子を手に走り回っていた。

 人の死でさえも楽しい場に変えてしまう、たくましいタイ人達である。講堂の後ろから覗いている外国人の私に気づいた黒服のおばさんが、氷の入ったコーラを片手に、食べ物もビールもあると、中へ誘ってくれた。
 
 旅は道ずれ世は情けなんて云いますが、近くには屋台すらなく無くて空腹だった私は、手もなく釣り上げられて、葬式に巻き込まれてしまった。 

 椅子に並んで座っているが、流れる音楽は賑やかな踊りに使うようなモーラム(民謡)であった。

 コーラを持って式場へ招き入れてくれたご婦人は、イサーンの田舎にまったく似つかわしくない、英語を話す女性であった。 話されてもなあ。みんなの視線が集まっているので、相づちはうっているが内容は理解できない。
 
 ビールを飲んで、食事をご相伴するのだが、老若男女50人ほどの中で緊張して楽しかろうはずがない。  照れ隠しに日本のキャンディーを一袋差し出すと、周りでそれとなく見ていたおばさん連が一斉に オー! この黒糖飴がうまいうまいと大好評、もっとないかとせがまれた。

 賑やかなこと賑やかなこと、大音響の音楽のなか、飲んで食べて、子どもも大人も大騒ぎ、これが本当に荘厳な葬式の最中なのだろうか。
私も遠慮がちに食べて飲みながら、黄色い衣の僧侶が読経を終えるまで座っていた。

 30分ほどで式が終わると、死者は一段と高い斎場に運ばれて、煙りにつつまれていった。偉そうな人が参列者に向かって、最期のお別れの挨拶を述べた。

Photo
 そのあと、大きな段ボールの箱が4箱ほど揚げられて、箱に詰められていたお菓子が、人々の頭上に投げまかれた。

 参列者が先を争って拾うさまを見て、幼い頃田舎の嫁入りや家屋の棟上げなどで、同じようにお菓子が撒かれて、競い合って拾った事を思い出した。

 慶弔の差はあるが日本でもタイでも、喜びや悲しみを皆なで分かち合う風習は、同じなのだと改めて納得した。

 気のいいソンテウの運転手は、目覚めて首を長くして待っていてくれた。チップを過分に渡したのは当然である。

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日帰りのパノムワン遺跡

 パノムワン遺跡は、東北タイ(イサーン)の玄関口にあたる、ナコンラチャシマー(通称コラート)から20㎞ほどのところにあるらしい。有名なピマーイ遺跡と同じ頃に作られたが、崩れた神殿跡が一つだけ残っているそうである。

 出たとこ勝負の気楽な旅で、見学できればよし、出来なくてもかまわない。バンコクから日帰りで行く遺跡としては距離的には、ここが限界であろう。

 バンコクのモーチットマイ(北バスターミナル)から、早朝のコラート行きのバスに乗った。
バスの冷房は例によってガンガンに効き、用意のヤッケが大活躍をしてくれる。このバスでのサービスは氷入りのペプシだ、乗客の身体を外と内から冷やす作戦としか思えない。

 バスは2時間ほどで、自然の美しいカオヤイ国立森林公園の中にさしかかった。「この木何の樹、気になる木」とコマーシャルに出てくるような大きな木が林立し、巨大な湖が白波を立ている。
 道路沿いには湖で獲れた蟹が茹られて買い手を待っていた。なぜかしら木炭も名産らしく、たくさん見かけられる。

 バンコクを出発して約3時間、バスはコラートの第1バスターミナルに到着した。
バンコクで読んだガイドブックには、第2バスターミナルからソンテウが出ていると書いてあったので、乗ったこともないオートバイの後ろにまたがり、冷や汗をかきながら移動した。

 やっぱりなあ。ここからパノムワン遺跡へ行くバスもソンテウなど誰も知らない。再びバスターミナル1に引く返しである。
 ここでも沢山の人に聞いてみたが、遺跡への交通手段は模糊として分からず、今日はここまで。 念のためターミナル内の本屋へ寄って地図を探すことにした。

 しかし、これは無駄な抵抗であった。東北タイで地図を買っても読めるはずがない。ウロウロしている外人に不審を抱いたか、女性ガードマンがつかず離れず、チラチラと視線をを送ってくる。

 私は容疑を解消するために、30代後半の女性ガードマンに声をかけた。
パノムワン遺跡にはどうして行けばよいか、教えていただけませんか。と聞いてみると、しばらく考えていたが、一緒に来なさい。 といってくれた。今日行くことを半ば諦めていたが、ひょっとして行けるのか。
 
 彼女は300m ほど離れた国道まで案内してくれた。 炎天下の国道で待つこと30分、走ってきたソンテウを止めて、この日本人をパノムワン遺跡まで乗せていけと交渉してくれた。このソンテウは次の村が終点になっているので、その後はチャーター料金にすることで話はまとまった。

 暑いなか仕事中にもかかわらず、案内してくれた女性の優しさは、心にしみて嬉しかった。そしてソンテウの運転手もまた気のいいオヤジさんで、今回の旅はいい人に恵まれた。と言うのも遺跡に着いても帰りはどうする、と心配してくれる。 バスターミナルへの交通機関が全くないのだ。

Photo_3  彼は昼食をすませてきたので、この日陰で昼寝をする。

 それで見学が終わったら起こせ。昼寝を口実に待ってくれるなんて、嬉しいじゃあないですか。

 遺跡なんて壊れた寺院の一部しか残ってなくて、15分もあれば十分であった。

 ところが少し離れた建物から、大音量の音楽が流れて、たくさんの人が出入りしている。

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タイで本場の舞を見た

 ホテルのロビーで何気なく読売新聞の衛星版を見ていると、偶然アジア特集の記事に目がとまった。  そこには国立劇場で、タイ国立演劇舞踊学校、チュラロンコン大学舞踊学科(博士課程)、日本アジア芸術協会共催のタイ舞踊「虹の舞」が開かれる記事である。

 大変だ! 是非とも見たい。開催日を見ると今晩だ、さっそくホテルを飛び出して国立劇場へ向かった。

 チャオプラヤ河のボートを使えば、とも思ったが、乗り換えなしに行けるバスが近くを走っているので、そのバスに飛び乗った。
 これが間違いのはじまりだった。、見事に夕方のラッシュの巻き込まれバスは微動だにしない。 世界でも名高い渋滞の始まりである。

 なんと予想も出来ぬ2時間30分かかって、王宮前広場までたどり着いたのだが、開演直前である。あれだけ時間に余裕を持って出たはずなのに。観客のほとんどは入場をすませて、チケット売り場には空席待ちの人たちが並んでいる。

  あかん。 せっかく半日をつぶして出てきたのにどうしよう。 気の弱いいつもの私なら、すごすごとホテルへ帰るところなのだが、今日は強気だぞ!

 入場口の係員に「私は日本人だ、日本のスタッフに用事があるので会いたい」と云ってみたがノーと答えて取りつがない。押し問答をしているとき、胸に「日本アジア芸術協会」と名札をつけた、偉そうな紳士が通りかかったので呼び止めた。

  嘘も方便といいますが、かまってはいられない。 「今日の公演を楽しみに、わざわざ来たのですが、渋滞に捕まって入場できそうもない。何とか鑑賞出来ませんか」というと、彼は分かりましたお待ちくださいといって、チケット売り場の裏から600バーツもする座席指定の入場券を持ってきてくれた。

 遠方からご苦労様でした、入場券は差し上げます。 偉い人なんだなあ。国立劇場へ入場して、案内の係員に誘導された席は、劇場中央のやや前方で、周りには正装の服装に身を包んだタイ人達が悠然と座っていた。半袖で出てきたのはまずかったか、と一瞬は悔いたがどうにもならない。

 座席について間もなく、司会者が真面目そうな顔でナントカカントカと話すと、一斉に劇場内の人たち全員が立ち上がった。
 拍手のなかを、お供を従えた女性が入ってきて、全員起立の中でタイの国歌が演奏された。

 私は誰が入ってきたのか全然分からなかったが、後で聞いてみると、その方はチュラポン王女であったそうだ。

 公演は中部タイ舞踊、南タイの踊り、北タイ舞踊、東北タイ舞踊の順で3時間にわたって繰り広げられた。 市内のレストランやお寺などで見る舞踊とは、質も迫力も格段の違いで凄い。
Photo_3
 綺麗な女性達が、美しく鮮やかに舞う姿は目を見張るばかりであった。

 雰囲気も素晴らしいし、鑑賞していて気持ちが安らぐいい公演を見せていただいた。

 一般にタイ舞踊と、ひとくくりで云っていたが、地方によって踊りのスタイルも衣装もまったく異なることがよくわかった。

  私が、これまでよく見るタイ舞踊は、チェンライを中心とする北タイ舞踊だったのだ。

 公演最後は、はるばる日本から来た舞踊団が、日本的な踊りを披露して大喝采をうけていた。

 偶然とはいえ、これだけ中味の濃いタイ舞踊が鑑賞できて心から感動した。、こんな豊かな気持ちで帰途につけるのは望外の幸せであった。

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ああ無情 たどり着けない彼の漁港

 雑誌に載っていた漁港のカラーコピーを手に、勇んでホテルを出たのだが漁港までの距離がかなりありそうだ。 トゥクトゥクは生徒達の下校にすべて奪われているし、私の酔狂な行動に合致するような交通機関は見つからない。

 交通整理をしている警官に近寄って、漁港の写真を示してここへ行きたい、と教えを請うと右への道を指さすが、道は遙か彼方まで続いている。困っていると警官はチャイニーズと聞いたので コンイプンと答えたところ、いきなり交差点に入って交通整理を再開した。

 しばらくして走ってきたトゥクトゥクを、道路脇の警官詰め所の前に寄せ、ここへ行けと不幸な運転手に漁港のコピーを手渡した。悪名高く、泣く子も黙る警察官ではあるが、日本人にはめっぽう優しいことを知っているので、卑怯かもしれないがまた頼ってしまった。

 ところがである。 今少しで漁港を見ることかなわず、引き返すことになろうとは。
 漁港に着く直前に、一転空がかき曇り台風並みの風と共に、雷と水が手を携えて落ちてきた。

 バケツの水をそのまま落としたような、土砂降りのスコールだ。 9月の南タイは雨季のまっただ中であることをしっかりと教えてくれた。

 情緒溢れる漁港の風景を楽しむ私のもくろみは、はかなく霧散してしまったが、ずぶ濡れになりながら走ってくれた不幸な運転手には感謝した。 

  夕食にタイ料理の食堂か屋台にでも行くか、と思っていたのだがスコールが延長戦を続けているので、ホテルのレストランですませることにした。

 こんな寂れた町のホテルなので、他に客の居るはずもなく、私一人の夕食である。
 海の近くなので、イカ焼き、海老の天ぷら、名も知らぬ魚の唐揚げ、野菜炒めなどに、
ビールを頼んで淋しい夕食となった。ビールの追加を頼むが、ウエイトレスはなかなか来ない。

 テレビの音が大きくて、奴らには声が届かないのだ。 遊んでないで仕事をせんか。気の弱い私は大声もたてず、足を運んで調理場の中を覗くと、やはりテレビに熱中して大笑いをしている。
 
 それもタイ語のアニメで、4人の従業員は楽しそうに笑い続けている。私に気づいて一緒に見ようと誘うなんぞ、日本ではあり得ない。

 ふとテレビに目を移すと、エ! これはなんだ、 日本のアニメじゃあないか。
だって、画面の中のお店には漢字で鈴木商店と書かれていて、その前には「特別大安売り」の幟が出ているんだから。 鈴木商店の店員のタイ語がペラペラでうらやましい。

 言葉はタイ語に吹き替えられても、大売り出しの文字までは替えようがなかったのだろう。鈴木商店さん、おかげで従業員と和やかなひとときが持てました。 コップンカップ。

 翌朝目覚めて耳を澄ますと、激しい雨の音が聞こえてくる。こりゃ駄目だ。 漁港を眺める望みが絶えたので、パッタニーでの連泊はやめた。とにかくハジャイまで帰って、航空券の変更がうまくいけばバンコクへ帰ろう。

 パッタニーはまた来ればいい。今度は乾季に来ようと思ったが、その後二度と行けずにいる。

 イスラム過激派の分離独立運動が盛んになり、パッタニーでは銃撃による死者が日常茶飯事のような厳しい状況が続く。これでは行きたくても行けない。 

 ここは14~19世紀は、タイではなくパッタニー王国であった。住民の80%以上がイスラム教徒でビルマ語を話す。 元のパッタニー国として独立を叫ぶ気持ちも分からぬではないが、長く続く紛争が解決しないものだろうか。

 

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異国情緒あふれるパッタニー

 運転手がわざわざホテル前でバスを止めて降ろしてくれた。 町で最も大きいホテル 
「マイガーデン」だそうだ。

Photo_3 フロントでは10代とおぼしき女性ばかりが、6人も井戸端会議中 「こんにちは」 と声をかけると会議は即刻終了して、営業用の笑顔に変身した。


 部屋はありますか。一泊いくらですか。 朝食は付いていますか。

と聞いてみると朝食はついてないらしい。

 マレーシアの至近距離の町なので、タイ語もどき が通じるか心配していたが、何とか意思の疎通は出来たようだ。ヤレヤレ。 さて、荷物を置いて、寛ぐ間もなく外出してみた。

 すると、少し離れたところに大変な人だかりができている。騒ぎは小学生たちの下校であった。 校門付近はバイクやトゥクトゥクで、子供を迎えに来た親たちでごった返しているのだ。  なんと過保護な! 
 
 学校の前はもちろん校門の中まで、お菓子に甘い飲み物、果物や麺類の屋台までもが並んで親と子供で商売繁盛、こりゃ毎日が文化祭のバザー状態ではないか。
 ああそうか、授業時間が終わったら、あとの行動は親の責任が常識なのだ。タイの先生に生活指導なる言葉は無縁なのである。 うらやましいことですな。

 考えてみれば学校は学習をするところ、先生は校内の規律を保ち、学習指導に専念すればいいのだ。

 これはごく当たり前の事かもしれない。日本の教師はスーパーマンではあるまいに、扱えないほどの仕事を押しつけられて、ダウン寸前に陥っているように見える。

 出迎えのお母さん、授業を終えた児童も女性は、大半が色とりどりのスカーフで髪を覆っていてとてもかわいい。
Photo_2 

これほどたくさんの女の人たちが、スカーフを着用している姿は映画以外では見たことがなかったので、どぎまぎしながら見とれていた。右の写真は高校生の下校風景の一部。

 今回の旅にパッタニーを選んだのは 「ほほえみの国タイ」 という雑誌に起因すると書いたが、イスラム女性の素敵な笑顔の一端には接することができた。

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マレー半島を南下するミニバス

  ハジャイの空港から町の中心まではタクシーで40分あまり、運転手はパッタニーまでこの車で行くよう盛んにすすめる。

 あまり薦めるで、いくらで行くかを聞いてみたところ、1500B(約4,500円)だという。1500Bで乗れば、運転手の家族が4日は暮らせる。でもパッタニーまでは地元の色々な人と一緒がいい。なのでバス好きの私は首を縦には振らない。
 
 パッタニー行きのバスターミナルは、道路脇にテーブルがたった1個、置かれたところがバスの始発停留所だった。 この程度の扱いのバスであれば、パッタニーの町の規模は想像できる。

 切符を売っているおばちゃんが、パッタニーはどこで降りたいのと聞いてくれるのだが、まだ何も決めてないのでわからん。でもホテルの確保が一番だろう。 しばらくしてやって来ましたパッタニー行きのバス。  うーんハジャイでは古いライトバンの事をバスと呼ぶらしい。
  
 なるほど辞書にもバスとは「乗合自動車」と書いてある。客を乗せる自動車であればバスなんだ。 私のバスに対する認識が間違っていた。 そしてパッタニー行きのバスは動き始めた。

バスの乗客は女性ばかり、しばらく走って、次ぎに乗る客もすべて女性である。
私は年はとってもただ一人の外国人、彼女たちの視線の対象になって、乗り心地はきわめて悪い。

 その中でも母親に連れられた3~4歳の女の子が、一人前にスカーフで髪を覆い、前の座席から後ろをチラチラと振り返り、私と目が合うとにこっと微笑む。

 可愛いい(ナーラック) と思わず声をかけると、母親が同じ顔をして笑顔で振り向き、ありがとう。 いいですねえ。

 広い道を疾走するバスの車窓からは、さすがマレー半島と思わせる美しい海の連続である。反対側に目を転じると樹木の大半は椰子の木、その奥の草地には牛がのどかに
群れていて、北タイや東北タイの風景とは、ひと味もふた味も違う。

 さらに道路沿いでは、塩田や海老の養殖場が堂々と景観を損ねている。
 この海老を輸入して、飽食にふけるどこかの国も、南国の自然破壊の共犯者と云われてもしかたがない。  海老好きの人は、時に立ち止まって自省することが必要かもしれない。
  2時間ほど走った頃、パッタニーの町に近づいて、乗客が次々に降り始めた。
残った乗客も運転手も、私がどこで降りるのか、気が気ではないらしい。 初めて私は
ホテルに行きたいと運転手に告げると、乗客の皆さまがたには ホッとしたようすがありありと感じられた。 ご心配をかけましたなあ。

 パッタニーのブログからは外れますが、2010年3月から、政府の治安部隊と反政府デモ隊との2ヶ月にわたる紛争は、死者85人と1,400人以上の負傷者を出して、何とか解決の兆しを見せはじめた。

  しかし北部や東北部ではまだまだ火種を残しているようで、チェンマイもチェンライも、さらにはランパンまでも、午後8時から午前5時までの外出禁止は続いている。

 この夜間の外出禁止令は、一応23日(日)夜で解除されそうだが、ナイドバザールも 有名な朝市にも大きな影響がでて、観光客や一般市民の被害が少なくない。この紛争の形の上での解決を見たので、時間と共に従来通りの平穏なタイの姿が見られるに違いない。 一刻も早くと祈念している。

 


 

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初めての南部へ いざ出発

 期待を胸に早朝ドムアン空港に着いた。 南に向かう51番ゲート前付近は、多くの若い日本人観光客が、賑やかに待機している。

 この男女の若者集団は、プーケット行きのボーディングが始まると、きれいに姿を消してしまった。 やれやれ!

 それにしても若者たちが去った後のゴミの散乱は、旅の恥はかきすてと云うものの、常識からは完全に逸脱していた。

 かりにも外国の準国際空港で、裾やすねをわざと破ったジーパン、半ズボンなど、いい合わせたように、古ぼけたゴム草履をはいた姿では、いくらリゾートへ向かうにしても他の乗客からは、大ひんしゅくを買っていたのは当然であった。  

 タイ人の通学する服装や通勤姿などを見ると、毎朝必ずパリッとアイロンがかかって身だしなみが非常にいい。 生地の悪い制服などピカピカに光っているが、アイロンさえかかっていれば、そんなことはどうでも良いのだ。

 ほほえみの国の人達は、笑顔で接しながら、他方では服装で人を厳しく評価している
ことを忘れない方がよい。 と、おじさんは呟くのであった。
Photo_2 

 私は急上昇していく小型機に搭乗するのが好きだ。可能ならプロペラ機がさらによい。

 機はチャオプラヤ河に沿って南下していくので、バンコク南部の地形がよく見える。 

 以前、渡河したことのある河口の町、サムップラカーンもこうして見ると、まだまだ本当の河口は南に伸びているのがよくわかる。

 河口から海に出ると、赤く染まった帯がかなり長く尾をひいている。チャオプラヤの大河が、700キロにわたる人々の生活の残滓を運んでいるのだから、赤潮の発生もやむを得ないだろう。

 真綿のような白い雲の切れ目からは、藍色に輝く海面が現れて、白い航跡を描く船が
幾艘も交差している。
 と、雲がすべて切れてきて、マレー半島に沿って白く長いビーチが延々と伸びている。
これは何という美しさだ。 素晴らしい地図が眼下に果てしなく続いてとぎれることはない。

 半島の西側に見える高い山並みはビルマ(ミャンマー)である。 今日は低空飛行を
予測して、窓側の座席をリクエストしていて十分値打ちがあった。

 地形から判断すると、サムイ島もプーケットも後方に去っていったので、後しばらくでハジャイに着陸する予定である。

 思った通り、しばらくすると高度が次第に下がり、山のすぐ上を通過して滑走路に着陸した。だが、飛行機は滑走路で大きくバウンドをするような、恐怖を覚える着陸であった。

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衝動的な南への旅

 私は日本海に面した町で子供時代を過ごした。当時は岬にある畑の仕事も、山の手入れも、すべて和船を使っていた。
 
 高校生の頃、裏の桟橋から出航する定期船に乗って、汽車に乗り継ぎ、二つ離れた町にある高校まで通学する毎日だったが、丹後縮緬の産地ともあって紡織科、機械科、普通科、染色を主眼とする化学科が設置されていた。

 何の間違いか、将来の確たる志望も持たないで、化学科に進学したのだ。 この高校の三年間で担任から「君らの将来は、会社の中堅幹部だあ」と叱咤激励され続けた。それなのに私だけ級友とは異なった進学という道を選んでしまった。

 このとき就職ではなく進学を選んだことが、私の人生を大きく変えてしまった。 それはさておき、今でも「海」を見ると非常に強く郷愁を感じるのは、子供の頃の海辺での生活が起因しているからだろう。

 ある時バンコクのホテルで、何気なく一冊の雑誌を見ていた。
そこには綺麗な漁港の写真が掲載されていて、ページをめくるにつれて、この港を実際に見てみたいとの思いが募って、早速実行に移すことにした。

 雑誌に掲載されていた漁港の写真を見ただけで決めたつもりだが、本音は赤色や青色をした漁船もさることながら、漁港の片隅に写っていたスカーフを頭にしたイスラム女性の姿に、こよなく魅力を感じたのも一因である。

 衝動的に計画をしてしまったし、動機としてはやや不純な面があったかもしれない。だが、旅とはそうゆうものなのだ。

 さっそく調べてみると、目的地はタイとマレーシアとの国境近くにあって、漁港とイスラムのモスク以外に、見るべきものは特にない町、と書いてあった。 が、いいんです。 行きたいと思ったのですから。


 この町の名前は、プーケットより更に南にあるパッタニーという。バンコクからバスを使って往復すると31時間はかかるそうで、こりゃあかん。
 
 裕福という言葉には生まれてこのかた縁はなかったが、バンコクからハジャイ(ハートヤイ)まで飛行機を使うことにした。
 さっそく シーロム通りにあるタイ航空のオフィスへ行って、明日からの往復航空券を
購入したが、距離が長いだけあって、料金はなかなかのものだ。

 突然の旅なので、何の下調べも準備もせず、飛び出す楽しさは、ひとり旅の醍醐味である。

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何でも体験だ 散髪でもしてみるか

 シーロム通りのヒンドゥー寺院近くを歩いていて、散髪のことを思い出した。日本の散髪屋さんには必ずと言っていいほど店先で回っている、あのシンボルマークを見たからである。

 タイでは赤と青のくるくる回る店は、残念ながら我々が思う散髪屋ではないのだ。もしやと覗いてみたが、やはりそれは美容院だった。ただその隣にマーク無しの散髪屋があるのを偶然発見した。

 店は主人であるオヤジと若い女性三人で営んでいる様子であった。 入っていくと顔を見るなりエッと云う表情を浮かべて緊張したのがよくわかった。

 緊張はお互いさま、異国といえども散髪は散髪だろう。 細かいことのタイ語は分からんが、目的が分かっているから、手真似でも理解は早い。
 髪のカットにシャンプー、ひげ剃り、それから耳掃除はできる? で料金はいくら。とたたみかけける。

 タイでは料金を先に聞くことが大切なのだ。終わってから聞くと、相手に考える時間が出来るので、敵はどうやってごまかそうかと知恵を絞る。

 外国人にまったく縁のなさそうなオヤジは300円、と慌てて答えた。

 話がまとまって、カットが始まった。 髪型はどうするかと聞いているようだが、まな板の鯉である私は、レオテー(任せる)とおうようなものだ。 まさか丸刈りにはすまい。

 カットされた髪がバラバラと落ちてくる。いつもなら居眠りするところだが、私の細い目は恐れおののいて悲痛そのものである。 なんとかカットは終えて前を見ると、鏡にはタイ人刈りの白髪のおっさんが写っていた。

 次のシャンプーは女性が担当らしく、時間をかけてていねいに洗ってくれた。流すのはお湯ではなく水道からの水を直接使うので、気温の高いタイではとても気持ちがいい。

 昔懐かしいカミソリを使ったひげ剃りは、順調に進行して最後はお待ちかねの耳掃除となった。 
 幼い頃、膝の上でマッチ棒の頭を使って母が掃除をしてくれた記憶を蘇らせながら、いよいよオヤジの出番を待った。

 歯科医が使うような専用のライトが引き出され、掃除用の細い金属棒が5~6本入った容器も運ばれてきた。
 これでは歯科に行って、仰向けになる姿勢を横にしただけの本格的な耳掃除である。

 オヤジはおもむろに時計修理に使うような、拡大鏡を眼にセットして作業を始めた。装備からして耳掃除の専門家スタイルである。
 痛そうであまり痛くはない、さすがプロである。 耳の奥から大きいのを引き出すたびに、ニヤッと笑みをみせる。

 20分ほどで耳掃除は終わった。  歯医者へ行ったときと同じで、痛いのではないか?  次はどうかと緊張するため、気持ちはよかったが肩がこった。耳の掃除はおえたが、期待していた老人性難聴の初期症状は緩和されてはいなかった。

 1時間半の至福の時間を過ごして300円か、病みつきになることがまた増えた。しかし同じバンコクの散髪屋でも、繁華街などの店やデパートなどでは、こうはいかない。散髪するなら場末の古ぼけた店に限る。

  

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タイ湾が押し寄せている

 タイ北部のチェンライやチェンマイのさらに奥地から流れ下った水は、ピン川やナーン川などと名付けられて、南への旅を続け、タイ中部の町ナコンサワン付近でチャオプラヤ河と名をかえる。
 北の最奥地からの距離は1,200㎞にも達する。 私はついにこの河の河口部分まで来てしまった。

 バスの終点、行き止まりの道、小さなお寺、名も知らぬ小さな市場、ポンポン船の繋がれた粗末な桟橋、こんな所が大好きだ。

 目の前の緑濃い大きな島の裏側に隠れている景色やいかにと想像させてくれる。そんな期待を抱かせて定員50人くらいの古ぼけた船は、ゆっくりと島の表側に回り込んでいった。

 そこで見たものは、これがあのチャオプラヤ河か。 たくさんの大きな貨物船が数多く停泊して、その間を縫うようにすすむ小さな渡し船、対岸にはサムップラカーンの大きな建物が立ち並び、その岸壁には無数の漁船が索われている。

 まさにタイ湾(シャム湾)が大きな口を開いて、チャオプラヤの濁水を静かに飲み込んでいた。
これがタイ湾の口の部分とするならば、足となる部分はマレーシア、シンガポール、ブルネイとなる。

 サムップラカーンに降り立ったところには、大きな市場があって、タイ湾で取れた新鮮な魚介類が所狭しと並んでいて、その豊富さを誇っていた。

Photo_6  

 ただ市場の足下はぬかるんでぐちゃぐちゃだが、混雑し活気に溢れていた。ノンタブリーやインチャルンの市場にも勝るとも劣らない見応えのある市場である。

 その魚市場から遠慮がちに、野菜を中心にした食材市場が大通りまで広がっていて、冷やかし歩くには飽きることはない。

Photo_7  この大きな道を右へ進み続けるとチョンブリーからパタヤビーチへ続くのだ。

 今は6月、タイは高温多湿の雨季に当たる。空の一角が黒く染まり始めているから間違いなくスコールがやってくるぞ。

 毎日のようにやってくるスコールが来ると、道は1数時間経たずして川と変じ、半日は行動が出来なくなる。

 まだまだ未練は残るが、急いでバンコクへ帰ろう。  

 サムップラカーンのような他の県にも、バンコクの都バスは足を伸ばしているから有り難い。バスマップで確認すると、508番と511番の2系統が北上して、スクムミット通りを通っていることが分かった。 これなら車掌にエカマイ (東バスターミナル) と告げておけばよい。

 エカマイで降りてBTS高架電車に乗り換えれば、迷うことなく都内のどこのホテルでも帰ることが出来る。

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チャオプラヤ河の終焉は サムップラカーン

 バンコクのチャイナタウンはバスや地下鉄など利用するより、チャオプラヤ河から行く方がよほど手軽である。ラーチャウォン桟橋を船でおりれば中華街の裏口だ。

 今回はラーチャウォン桟橋からチャイナタウンへは入らないで、同じ桟橋から渡船でトンブリー地区へ渡ったのである。
 渡ったところは、うらぶれた薄汚い場所であったが、20番のバスの基地になっていて、数台のオレンジバスが20番の番号を付けて停車していた。

 このバスはかなりの距離を走るので料金が距離制である。そのため車掌はすぐに行き先を聞きにきて、切符を切ろうとする。

 今日も終点まで乗る予定なので、車掌には 「パイ・スッサイ」 (終点まで行く) と伝えた。正式には終点にあるお寺の名前 「ワット・プラ・サムッ・チェディ」と答えるのだそうだが、舌を噛むような寺の名前など覚えられるものではない。

 さあエアコンバスで終点までのんびり行こう。バスの中はあれほどバンコクで見た、日本人の姿は全くなくタイ人ばかりである。観光客は俺一人、嬉しいような寂しいような、変な気分だ。
 
 道路沿いには高床式の家で昼寝をしているお爺さん、汚れた運河、椰子やバナナの畑、沼地には日本でも見られるガマの穂、学校、市場なども見られ、次第に田舎の様相が深まってきた。
もうここまで来ればバンコクの地図からは完全にはみ出しているに違いない。
Photo_2 

 田舎道を2時間近く走って 20番バスが数台待機している場所で、みんなはゾロゾロと下車をした。

見渡すとオレンジのバス以外にも、大型のソンテウが何台か止まっている。

このソンテウがバスから降りた客を、さらに田舎に散った村々まで運ぶのだろう。

 私はプラ・サムッ・チェディに形ばかりのお参りをして、数軒の店が集まっている所へ近寄った。

そこではガイヤーン(焼き鳥)を焼いていて、盛大に煙をあたりにまき散らしている。Photo_4

 その香ばしい匂いに惹かれて、小さな女の子が引き寄せられていく姿がとても可愛い。 でもお母さんは手を引き戻して買ってやらない。

 今少し前に進むと桟橋があって船が待機している。

 前方は緑濃き大きな島が、景観を閉ざすかのごとく立ちはだかっていてなにも見えない。

Photo_5

  三々五々に集まった乗客を乗せて、渡船は動き始めた。バンコクの中心部とは異なり、風の香りも潮風そのものとなって、大きな島を巻き込むように左へ船は進んでいった。

 

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プラプラデーンの緑バス

プージャオで、しばらく眺めていたが、プラプラデーンに渡ってみようと思い探してみると、小さな渡船を見つける事が出来た。 小さな渡船と大きなフェリーこの格差が、ここでの重要性を如実に表している。

 この渡船に料金6円を支払って乗ってみて分かったのだが、渡船がなければ対岸に渡る他の交通手段は考えられないので、近辺の町や村の人たちにとっては貴重な船なのだ。

 約10分でプラプラデーンの桟橋に降り立った。 雨の中に何の変哲もない家々が並んだ、単なる普通の町であった。

 さて、どうしよう。 どうするにしてもトイレは必要であろう。しばらくプラプラデーンの町を歩くと官公庁らしい建物を発見した。警察署のトイレでも入っていく事があるくらいだから、これは楽勝である。何食わぬ顔で入ってみると、やはり町役場であった。

 一階にはトイレは見あたらなく、堂々と二階に上がってみると有りましたねえ。それも職員用のトイレが、見とがめられたら何も知らない外国人を装えばいいだけだ。

 用をすませて、雨の中を歩いていたら子ども連れの母親に、役所はどちらに有りますか。と尋ねられた。(役所という言葉は分からず予想) 、あの建物ですよと告げると、有り難うと云って、雨の中を子どもの手を引いて建物の中へ入っていった。

 これで、今日は一つ善根を果たしたぞ。 それにしても、道を聞くなら、タイ人らしい人に聞いてくださいね。プラプラデーンの町から、どこかへ移動しようと思ってもバスが見つからない。しかたなくフェリー乗り場まで引き返してみると、バスらしい小さいのが1台見つかった。

 しかしなあ、これがあの有名な小型の緑色のバスなんだ。どう探してもこいつしかいない。 困ったぞ。

 バンコクのバスの種類は色々あるが、こいつは個人に委託したバスで、無謀運転専門でみんなから毛嫌いされているバスだ。 これしかないのなら乗らんとしゃあない。    車内で煙草を吹かしている車掌に、行き先を聞いたら王宮だと答えた。

 田舎道を爆走していくその運転たるや、対向車線にはいることなど当然のごとく乗客に恐怖を与え、眠気の防止に努めてくれる。

 しばらくして追い越したバスがあった。 同じ6番を着けた緑バスで仲間のバスである。
同じ路線を走るので、客を拾う早い者勝ちの競争なのである。 運行時間など全く関係はないのだ。我がバスは果敢にも対向車線に入って、再び追い越しをかけて先に出た。

 このようにしてトンブリー地区を北行していくが、バスの前後の扉が開いたままなので、雨と風の洗礼に悩まされ、たまらずタークシン橋で降りることにした。

 「そこのけそこのけ緑バカが通る」とばかりに危険運転を繰り返すバスは、交通局に云わせると、断固取り締まっているそうだが、警官が袖の下の力で、みんな見逃しているので、なんの実効もない。

 タークシン橋のたもとで下車した後は、渡船でチャオプラヤ川を渡り、対岸のBTSサパンタークシン駅から電車でホテルに帰った。

 こんな面白くもない近場の旅も、行ってみなければ何も分からない。しかし一度行けばバンコクの南には、プージャオがあり、蛇行した河を渡るとプラプラデーンの町がある。

 プラプラデーンから、トゥクトゥクを利用すればサムットソンクラーンの海老養殖場に行ける。そこには海老専門のお店があるのだ。 次の機会には挑戦してみたいと思っている。

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雨季のタイをバスに乗って

 遺憾ながらバンコクが市街戦の様相を呈して、なおかつ非常事態宣言の地域が拡大されて、チェンマイ、チェンライをはじめ、北タイと東北タイ全域にまで広がってきた。

 バンコクではいつも都民の憩いの場所であったルンピニ公園付近でも、

Photo_3 銃撃による死者や重軽傷者が出始めた。

Photo_4  また、伊勢丹をはじめ都内の中心部は電気、水道、電波などが止められて、

一帯はデモ隊と、それを取り囲む治安部隊と一発触発の状態が続いている。

 電車もバスも止まって、何をするにも都市機能が極端におちた。

 昨日付けで日本大使館も閉鎖された。どうか一刻も早く穏やかな王国に立帰って欲しいと願うばかりである。

 こんな状態でのブログは投稿しづらいが、少しだけ書いてみる。

 9月のバンコクは、まだ雨季の最盛期だ。タイの北部や中部に降った雨は、何十日もかけて大きな川をゆったり流れ、中流域や下流域に洪水を配達してくれる。

 バンコクの大河チャオプラヤ川は、この時期でも沢山の外国人観光客が押し寄せて、観光に大わらわである。 しかしこの時期はチャオプラヤ川が増水して水位が高くなるから困るのだ。

 チャオプラヤエキスプレスのボートで観光している大勢の客は、下船すると桟橋は浮桟橋なので問題はないのだが、その浮桟橋から陸地までの木製通路が、水没していて簡単には渡れないのだ。
若い女性などには背負ってくれる奇特な人もいるが、男性や若くない女性などは、膝までの水につかりながら、流されぬよう気を配り、怖々上陸しなければならないので、まことに悲惨である。

 昨日に続いて朝から景気よく降り続いている。こんな日は食べることか、乗り物に乗って、どこかを散策するくらいしかすることがない。
 ホテルのロビーで地図を見ていて、変てこな地名が目に付いた。それは「プージャオ」という変な名前だった。そこはチャオプラヤ川の下流にあって、車が川を渡れる最後の地点だった。

 さっそく好奇心いっぱいのタイスキおじさんの出番である。バスマップとにらめっこをして、コースを頭に描き、スクムミット通りから 513番のバスに乗り込んだ。

 車掌がカシャカシャ(切符だよ!)と例の音を立てやってきた。

 いつもなら、パイスッサイ(終点まで行く)と云うところだが、行き先がはっきりしているので堂々と、プージャオといって50円で切符を買った。

 エカマイ(東バスターミナル)、オンヌット(BTS最終駅)を遙かに超えて、バスは南へ南へと走り続ける。

 サムップラカーン(隣の県)の近くから右折したら、道路は冠水していて水が元気よく流れている。

 乗客は水にのまれた道路脇の停留所付近で、次々に下車していくが、膝上まで浸りながらのご帰宅なのでそれはもう大変だ。

 ついに私一人になってしまった。 運転手と車掌はチラチラと、最後の客である私の方を見て何かを話している。

 気まずいなあ。 このバスは終点まで乗ったらあかんのかい。
乗車して1時間30分、チャオプラヤ川に突き当たり、終点であるプージャオに着いた。

 プージャオからチャオプラヤ川を眺めると、大河は降り続く雨と川面から登り立つ霧が相まって、荘厳な風景を生み出していた。 これがバンコクを流れる、あの メナームチャオプラヤか。

 バンコクを通過したチャオプラヤ川は、下流のラーマ9世橋を最後に橋をもたない。そして流れる川は、左へ大きく蛇行して卵形のように迂回して、元の位置近くへ帰ってくるのである。この蛇行距離はなんと16㎞にも及ぶ壮大なものであった。


 プージャオは、チャオプラヤ川が蛇行を終えて、元の位置近くへ帰ってくる根本部分にあり、そこではフェリーが対岸にトラックや乗用車を運んでいる。

その対岸の町が、これまた変な地名で、「プラプラデーン」 という。ここまで南下するとバンコクに住まいする人の多くは、その名前すら知らない。

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鰐なんか好きではない

 私はバスに乗るのが大好きだ。バンコクのバスは想像もつかぬ運行をする。都バスのなかには高速道路の一部を走るバスがあって、快適だがもちろん停留所はない。  そうかと思えばバンコクから隣の県まで遠征しているヤツもある。     


 これらの都バスの系統は188系統もあって、覚えきれるものではない。しかしバンコクのバスマップからはみ出して隣県まで遠征するバスは、どこまで行くのだろう。と想像するといても立ってもいられず、つい乗ってみることになる。

 時間が出来たので、スクムミット通りを南に向かって走る、508系統に乗車してみた。
このバスは隣のサムップラカーン県までいくので、バンコクの地図からは途中で消えてしまい、終点がどこなのかさっぱり分からない。

 遠距離の場合は、距離によって料金が変わるので車掌に行き先を告げる必要がある。どこまで行いくか分からないバスに乗ったのだから、「○○まで」などと云えるはずもない。こんな時にはパイ・スッサイ( 終点まで行く )と告げて切符を買う。

 サムップラカーン市を通過し、田舎道をかなり過ぎて終点となった。そこには大きな建物があって、遊園地のような感じだった。

  タイ人に聞いてみると、ファームチョラケー( ワニ園 ) だそうだ。せっかく来たのだからと入場券を買ってみたら900円だった。
ちょっと変だぞ。 タイ人は60円しか払っていないのに、何で私が900円だ。

 これまで、どうもおかしい思っていたことが、初めて分かった。 外国人とタイ人では入場料が違うのだ。 王宮やエメラルド寺院でも、外国人は入場料は1000円なのに、一緒に行ったタイ人は無料で入ってしまうのだ。

 ワットポー( 涅槃寺 ) なんかでも、外国人は150円、タイ人はすべて無料だ。 わずか 150円でも腹が立つので、私などはいつも裏口から入って無料で拝観させていただいている。 これでは お参りしてもご利益は期待できないですなあ。

 外国人料金のことで話は横道にそれたが、ワニ園には鰐が溢れるほどいる、係員に聞いてみると、3万匹以上いて、雨季に洪水で流されるのがかなりいるそうだ。 恐い話だが事実のようだ。

Photo_3 

 前にサムットサコーン県で、2メートルほどの鰐が河を泳いでいるのを目撃したが、ここの鰐が流されてきたのかも知れない。

 このように見知らぬ所までバスで来てしまうと、観光ではない色々なことを、楽しむことが出来る。都バスも捨てたものではない。

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旅には欠かせないトイレ事情

 きれい事ですまされないのがトイレ事情である。 これは日本とかなり様子が違うので、あえて書いてみた。

 バンコクには高架電車と地下鉄が走っていて、それぞれの駅は立派な物である。 日本の駅ならちょっと用を済ませてから電車に乗ろう。と考えることもあるがそうはいかない。
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 電車の駅の総数は42駅あるのだが、トイレはどこの駅にも設置されていない。

 となると、無料で使用できそうな場所はホテル、デパート、病院くらいになるだろう。しかし、デパートのマーブンクロンなどは、人の弱みにつけ込んで有料となっている。

 大きなお寺とか観光名所などにも見かけることはあるが、特別高額な入場料を取っている場所以外はすべて有料なので、小銭は必ず常備していなければならない。  

 100B札で釣りを出せと、大声でてわめいている外国人はいくらでもみかける。     事情はよく分かるが、みっともない光景である。 大体のトイレはどこへ行っても、3バーツ(9円)くらいである。

BTSのサパンタークシン駅は、チャオプラヤ川のサトーン桟橋と繋がっていて、乗船下船する都民や大勢の観光客で終日大混雑をしているが、この駅にもトイレは設置していない。

 これではあまりに殺生とばかりに、気の利いた業者がトイレを設けている。ところが他のトイレと比べ、使用料を5B (15円) と、2倍ほどにして大儲けしている。3Bを握りしめて飛び込んだ客とのもめ事は日常茶飯事である。
 

 私は一人で旅をするときも、友人と一緒の場合も、トイレの使えるところがあれば、いま必要を感じなくても、友人共々必ず使うことにしている。
 

 この勧めを怠って悲惨な思いをした友人は、数え切れないのだ。 そして 「おいトイレはどこにある」 といわれても、私はガイドではないし、トイレに精通している訳ではないから困ってしまう。

 チャオプラヤ川の畔には、ロイヤルオーキドシェラトンやオリエンタルなど、自称高級ホテルが立ち並んでいる。高級とは云っても、私は嫌なホテルだと常々思っている。

Photo_2  タイ人や日本人など、有色人種が短パンやサンダル履きで入ろうものなら、蔑みの目で見られて、入ることすら断られる姿を何回も見ている。

 一方、白い肌の客に対しては、半ズボンであろうが草履であろうが、最敬礼で笑顔を振りまいている。

  チェックインの順番も後ろから来た白人が優先されるので、不愉快な思いをすることが多い。こんな差別的なホテルに、有り難がって泊まる日本人の気がしれない。

 いくら肌の色が白くとも、できの悪いのや自国で食い詰めて、流れてきたのも多いのだ。 あからさまに白いのを最優先にするような、施設やホテルなどは苦々しくて、嫌悪感すら覚える。 
 私はこれらのホテルの横から、渡船で対岸のトンブリ地区に渡ることがよくあったが、必ず勝手知ったる正面以外の入り口から入って、高級だと自称しているホテルのトイレを、いつも堪能していた。 なるほど気持ちのよい気分である。  

ともあれ、 「トイレはどこにありますか 」 くらいのタイ語は使えるようにして旅はしたいものである。

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人は見かけによらぬもの

 散歩の延長のように歩いて、空港まで行って午前中のチェンマイへの飛行機に乗った。今日からの予定はチェンマイは空過して、馴染みのチェンライで、3日ばかり寛ごうという計画である。Photo 

 左の写真は、メーサイで出会ったミャンマーの山岳民族の女の子である。二人とも、重い荷を背負うときの用具を持っていたので、見せて貰った。

荷を背負うとき、重量を肩と頭に分散しさせて持つのだそうだ。チェンライではまたこんな出会いが、あることだろう。

 私がタイへ行き始めた頃はチェンマイからチェンライまでの飛行機が飛んでいた。それが休止したまま現在に至り、バスがそれに変わって久しい。

 愚痴をこぼしても仕方ないので、チェンマイアーケードバスターミナルへトゥクトゥクで移動した。

 このターミナルからチェンライ行きのグリーンバスが、山道を3時間30分ほどかけて走るのだ。   

 ターミナルに着いて、一番最初に目に付いたのが、赤毛を伸ばし放題にして、髭だらけのヒッピー風の若者が、ボロリュックを側に置きベンチに座る姿だった。

 うっとうしい一番嫌いなタイプだ。来るな来るなと念じていたが、思うようにならないのが世の常である。

 不運である。神に見放されたのである。 何とヤツが俺の隣の座席番号を持っていたのだ。
旅は楽しいものと云うが、楽しくない旅だってあるのだ。 私はバスが動き出しても車窓だけを眺めて、無言の行を2時間半ほども続けた。 もうそろそろチェンライ県に近づいてもいい時間だ。

 そう思って北部の地図を開き、現在地を確かめていた。 するとヤツが横目でチラチラ見とる。
 そして ヤツは「アナタハ、ホンノ カタデスネ」。  驚いたのなんのって。 流暢な日本語ではないか。

 私が日本人とよく分かりましたね。というと、 顔が日本顔です。日本顔なんて顔があるのかいな。

そのうえ、地図の文字が全部「カタカナデシタ」。  これには残念ながら完敗であった。 何でこんなことになるのだろう。

 彼はニュージーランドの学生で、4年間東京大学に留学していてこの間卒業したので、タイからミャンマーを経てインドに行きます。 とのことだった。

 なごやかに日本語の会話を続ける内に、チェンライのバスターミナルに到着した。 ヤツは別れ際に「オキヲツケテ、イイタビヲ、シテクダサイ」   君には負けました。 

 人は見かけで判断してはいけないことを、この歳で実感した。  それにしても旅ではいろいろな体験することがあるあるものだ。 

 

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メーホーソン 朝の散歩は清々しい

 市場を出ると買い物客を狙って、人々の足であるモトサイ(バイク)が並んで客待ちをしていた。

Photo_2 太った女性のドライバーが、私を見て パイナイカー(どこへ行くの) と声を掛けてきたので、とっさにドイコンムー(山上のコンムー寺)と答えた。

 ドイコンムーは、 430メートルの山上にある寺院で、ここからはメーホーソンの全景を見ることが出来る。

 話はまとまって、オバサンのバイクはあえぎながら登山を始めた。
バイクに乗ったのは、山の上は気持ちが良いのは分かっているが、登りがあるから歩くのが嫌なのだ。

 早朝の曲がりくねった山道は、さすがに清々しく気持ちがよい。
重いオバサンと標準タイプの私を乗せたバイクで、やっと山上のお寺に着き、そこから見渡した風景は、町並みや空港の滑走路、霧にかすむ山々が一望できて素晴らしい光景であった。

 霧を背負った山に目をこらしてみると、あちこちの山から細い煙が立ち登っているのが見える。
煙の立つところが少数民族の村々で、独自の文化を持って、生活を営んでいるのだろう。
そんな彼らの生活を好奇の目で、見物に行くのはやはり好きではない。

 メーホーソンの遠景に満足して、再び重さにあえぐ可哀想なバイクで下界に降りた。オバサンにホテルではなく、ワットチョンクラーンまでといって、昨日と同じ池の畔まで送ってもらった。

Photo_3
ビルマ風の寺院二つが連なって並び、その影を池に落とす景色は、何とも私の心を魅了してくれる。

 池を巡り、ワットチョンクラーンまで来ると、静かな境内を僧侶達が朝の掃除にいそしんでいた。

  挨拶を交わしたインテリ風の青年僧は私が日本人と分かると、猫を一匹従えて、私を本堂に誘い、隅々までを案内をしてくれた。
 この寺院の内部と資料館は入場料を取って、9時から見学が可能となっていたが、青年僧は開館1時間前であったが、入場料免除、猫の案内い付きの破格の扱いをしてくれた。

 ホテルへ帰ると、トレッキングの出発時間で、ファラン (白人) の男女が賑やかに四輪駆動に乗り込むところだった。 やはりヤツラは好奇心丸出しの顔をしとった。

 私は静かになったホテルの食堂で、トーストに目玉焼き、コーヒーの、まことに質素な朝食を取った。 さて、今日もひとりだけの旅が始まる

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メーホーソンの雨

 ホテルで寛ぐ間もなく、池の畔に立つ「ワットチョンクラーン」と「ワットチョーンカム」を見に行った。 ビルマ(ミャンマー)の影響を受け継ぐこの寺院は、静かな水面にその影を落してとても美しい。 うん、見たかったのはこれなんだ。 目に焼き付ける風景ってあるもんだ。

Photo

 美しい池畔で、寺院の落とす影を鑑賞したり金色の寺院に見とれたり、池にいる魚の群れに遊ばれたりしての2時間は、心休まるひとときであった。

 チョーンカムには光り輝く金色の重厚な仏像が安置されていて、黄色い袈裟を着けた老僧が座っていた。 暇そうにしていたので話しかけてみた。やはり人並みに退屈されていたようで、延々とお話は続き止まるところをしらない。


 いつもの事ながら古式マッサージを探した。やはりタイである。どんな鄙びた山の中の町にも、人がいればマッサージ店もあるのだ。

 昨日の午後自宅を出てから動き続けなので、2時間のマッサージの殆どは熟睡していたようである。

 促されて、目を覚ますと、凄い雷が大雨を連れて暴れていた。  チップを渡して、出口付近にあった古ぼけた傘を手に取り、プルンニー(明日)というと頷いていたので、そのまま傘を手に飛び出した。
 雨季の雨はよほどのことがない限り 午後に3~4時間ほどは、律儀なほどにやって来て激しく降っていく。

 マッサージを終えてホテルに帰ろうと、店から出てみるとかなりの雨の中を、三人乗りのバイクが5~6台傘をさして走っている。学校帰りと仕事帰りが重なっているからだろう。

 この大雨で、ボロ傘を差していても役に立ちそうにないので、近くの食堂に逃げ込んだ。
適当な料理を注文して、あと一品お勧め料理はないかと聞いてみると、「すき焼き」! これがうまいと男の店員がいう。本当かいな。

 物は試しと、、「すき焼き」を注文した。  出てきたのは、大きな丼茶碗に野菜、茸、卵、肉、その他をごちゃごちゃに入れたスープであった。こんなん、、「すき焼き」と違うやん。
日本のすき焼きを期待する方が間違っていた。それにしても大きな特製の丼であった。

 さて、このスープを一口飲んでみると、味が濃厚である。複雑でうまいのである。
辛い、酸っぱい、味噌の味もする、これは海老味噌かも知れない。 このすき焼きは次回来る機会があれば、また必ず食べるだろう。すき焼きは80円の料金で満足であった。

 
 日本より夜明けがかなり遅い。6時過ぎになってやっと明るくなってきた。まだ眠り込んでいた警備員に玄関を開けさせて、朝の散歩に出かけた。  あれほど降っていた雨も午前中は降らない。

 爽やかな朝の空気を満喫しながら歩く道々には、托鉢の僧侶の列が絶え間なく続いていて、これはこれで一幅の絵である。
それにつけても、こんなに托鉢僧が多い町は初めてだ。タンブン(喜捨)をする善良な仏教徒でも、毎日となると大変だろう。

 賑やかな市場があったので、さっそく覗いてみた。山で取れた食材を並べた山の人たち、まだ暗い山道を何時間も掛けて降りてくるのだから大変な事だろう。
川や沼で獲れた魚や蛙、亀、バッタ、タニシやゲンゴロウまでタンパク源になっている。

 動物や植物は毒性がなければ、全部食用になると頭では分かっているが、、鶏の足首とか芋虫や豚皮の天麩羅を買って帰る様子を見ていると、生育環境の違いに寄るのだろうが、食べてみようと云う気にはならない。

 

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ミャンマーにほど近い メーホーソン

第二次世界大戦で、雨季のインパール作戦に破れた日本軍は、食料弾薬ともに無く、大敗北を喫して、ぬかるみの中を徒歩でタイへ向けて敗走を続けた。

 殆どの将兵は豪雨のなか、傷つき疲れ果て、飢餓にあえぎつつ、泥濘の道に次々と倒れていった。日本兵の死者は退却路に沿って累々と並んでいたという。そしてこの道路は今も白骨街道と呼ばれている。

 白骨街道は延々とビルマからメーホーソンまで続いた。やっとたどり着いたメーホーソンでも死者は7,000名以上にのぼるという。その死者をタイの人たちは鄭重に葬り続けてくれたそうだ。インパール作戦での戦死者は40,000人以上で、その殆どの兵が餓死であったという悲壮な戦であった。

 私達は戦争によって、日本の若い兵士ががこのようにたくさん戦死している事実を、知るよしもない世代に生きている。日本の地に帰ることが叶わなかった、数え切れない若者がいることを思うと、鎮魂の思いを抱くと同時に、この地を訪れることに一抹の躊躇を覚えていた。

 これではならじと、今回は思い切ってメーホーソンを訪ねることにした。バンコクの午前5時は、まだ暗闇の中に蒸し暑さが同居していた。

  入国審査を終え、スーツケースを空港の荷物預かり所に託して、チェンマイへ向けて出発した。更にメーホーソン行きの飛行機に乗り換えて30分のフライトで、山の中の小さな空港へ着陸した。

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 メーホーソン空港は山深い小さな空港なので、飛行機は山すれすれに進入しなければならず、手に汗握る着陸となる。

 強者どもが夢の跡ではあるが、首長族をはじめ少数山岳民族の村を訪れるトレッキング基地としても有名なメーホーソンの村である。
 もちろん時差の関係もあるが、関西空港を深夜1時30分に出発して、同じ日の 午前10時35分にはメーホーソンに着いていた。

 チェンマイからメーホーソンへのタイ航空は、一日2便しかなく座席はいつも満席で航空券の確保が難しい。 この航空券が取りにくいのは、タイ航空を利用すれば30分だが、バスでは曲がりくねった山道を何と8時間30分もかかるからである。

 それでも、ついにやって来ました。ビルマのすぐ側の山間の町は、霧に覆われて神秘的だった。

 さっそく空港から遠くない、市場が近い、優雅な寺院にも一番近い、手頃なホテルを探すことにした。 選んだのは木造のホテルで「 バイヨークシャレーホテル」 が希望に近かったので、宿泊することにした。清潔、機能的な

Photo_2 山小屋風の部屋は快適で気に入った。

 
 今回メーホーソンを選んだのは有為な若い日本兵が無念の死を遂げた、白骨街道に近づき、少しでも慰霊の意を表したい。

そのことと、ガイドブックには必ず紹介される、池の畔に建つビルマ風の優雅な寺院もあわせて観賞したかったからである。

 ホテルの従業員が盛んにトレッキングを薦めてくれるのだが、私は首の長い女性には興味はないし、観光化した山岳民族の村に入村料を払ってまでの魅力は感じなかったので遠慮した。


 

 



 

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黄金の三角地帯に麻薬は見あたらなかったが

 ゴールデントライアングルに麻薬など影も形も見なかったが、貧困には勝てず芥子の栽培に今でも手を出す人がいるのも事実らしい。

 ある時、私と同じグループの女性が、アユタヤ見学の日本人ツアーに入り、日本語ガイドから、京都に大変お世話になったかたがあるので、お礼の品を持ちかえって欲しいと云われたそうだ。 この話を帰国後聞いてゾットした。

 善意からの行動だったと思うが、非常に危険な行為だった。 しかし本人は親しくなったガイドさんから、お土産を預かっただけだからと、意に介していない。何事もなく済んだからよかったが、肝を冷やす行動であった。

 先日も中国で日本人4人が、麻薬密輸罪で死刑を執行された。タイだって麻薬に関わる日本人受刑者が27名いる。その中の3人は終身刑だ。

 日本のように服役態度がよければ減刑されるようなことはないので、仮に恩赦があったとしても、40年は服役しなければならない。 これでは、ほぼ生きて日本の土は踏めないことになる。

 麻薬と知らずに運んだ場合もあるだろう。しかし空港では知らなかったとか、預かっただけだとか、いくら釈明しても麻薬の不法所持の現行犯には違いない。タイの日本大使館が弁護などしてくれる訳けもなく、どうあがいても数十年の刑務所暮らしは間違いない。

 タイの刑務所は、日本の刑務所のように厚生施設としての役割など持ち合わせない。単なる懲罰を目的とした施設なので、悲惨な日々を送らねばならないそうだ。

 私はタイ以外の国には行ったことはないが、他の国だって同じだ。西日本新聞によるとマレーシアで覚醒剤を持ち込んだとして逮捕された日本人女性(35)の裁判が、現在進行中だそうだ。

 有罪が確定すれば、法定刑は死刑に限られた国なので、この女性の死刑はまず免れない。気の毒ながら、いまさら泣いても悔やんでもどうすることも出来ない。

 何気ない行動が、思いもかけぬ結果になって将来を失わないように、どんなに頼まれても自分の荷物以外は持たないことが旅の鉄則である。

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ゴールデントライアングルて何なの

 ゴールデントライアングルというのは、別名「黄金の三角地帯」というのだが。タイ北部のメーサイからチェンセンの間にあって、ミャンマーとラオスとタイが接した地点一帯をそう呼ぶのだ。Photo 

       (手前はタイ)   (向かいがミャンマーとカジノ)   (右はラオス)

 ここに世界中から観光客がやって来る。さぞかし人々の心を魅了する物があるに違いないと思うのだが、名所旧跡をはじめ見たいようなものは何にもない。

Photo_2  では、何で観光に来るかと云えば、この付近が長い間、膨大な量の芥子(ケシ)の栽培をしていたからだ。この芥子は麻薬として名高い阿片の原料だ。つまり世界的に有名な麻薬の産地(巣窟)だったのだ。

 有名だから見に行く。行っても昔の産地だから今は跡形もない。誠に不思議な観光の名所である。

 しいて探し回れば阿片資料館があって、昔を忍ぶことが出来ることと、川向こうのミャンマー領にカジノがあるだけで、あとは粗末な土産物とへんてこな訳の分からん大きな仏像が並んでいるだけである。                                                 

 家を出る前に今回は、ゴールデントライアングルへ行ってきますと告げると、そんな危ないところにわざわざ行かなくても、と云われたが実態は何もないところなのだ。

 チェンライからのボロバスがチェンセンに到着すると、トゥクトゥクの運転手がワット集まってきて、トライアングル、トライアングルと叫び客集めをする。安く行こうとする人は別の場所で静かに待つソンテウに乗る。

 メコン川に沿って15分くらい走って到着したトライアングルには、予想通り何も見るべき物はなかった。

 若い大学生風の日本人が、タイの女性に案内されて見学に来たいたが、会話も少なくぎごちない。そこで二人一緒の写真のお手伝いをして、今日はどこから来ましたか。と聞いてみるとメーサイからソンテウで来たという。

 そうかこれだ。 この一言でチェンライへの帰りはメーサイ経由とすることにした。

 なかなか来ないソンテウがやっと来た。メーサイまで行くことを確認して、乗り込むと中学生くらいの女の子が一人いた。

 ソンテウは国境に沿って曲がりくねった山道を走り続けメーサイに到着したのだが、女の子と1メートルほどで向き合うことになった1時間30分は何とも気詰まりで疲れたことか。ご想像いただきたい。

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トレッキングって何だろう

 メーホーソンでもチェンライでも、ここはトレッキングの基地ですからいかがですか。と誘われることがよくある。 友人にも、そんなの行っておかないと話が出来ませんで。と云われる。

 なんやよう分からないので、調べてみるとトレッキングいうのは山を歩くことやそうな。 そりゃあかん。私など道を歩くだけでつまずくことが多い、後期高齢者予備軍なのに山歩きなんて出来るわけがない。

 象に乗りたいという、友人S氏が一緒だったので、チェンライのJトラベルに顔を出し、歩かなくてもいいトレッキングってありませんよね。 と期待を込めて聞いてみると、オーナーの山地さんは即座に、ありますよ。 ホントですか これはえらいことになった。

 翌朝8時、ホテルのロビーにカレン族のサイモンが元気な顔を出してくれて、すぐ出発となった。車をコック川の船着き場で降りて、スピードボート乗り換えた。ボートは速いスピードで上流に向かって疾走し始めた。

Photo_4  渓谷の冷気と水しぶきで寒いのを我慢すること1時間15分、スピードを落としながら川岸の粗末な桟橋に繋留された。

 船から下りて前を見ると鉄製の檻の中にいましたでえ。

 大人の太ももよりもっと太いのが2匹動いとる。大蛇が居るとは聞いていなかっただけに驚いた。

 爬虫類なんて蛇はもとよりトカゲや亀なども大嫌い。私が鶏が苦手なのも足が爬虫類の名残を残しているからなのだ。

 有料だが、希望する人には大蛇を檻から出して首に巻き、写真を撮らせるという。S氏はさっそく長いのを首に巻いてVサイン。 人間のできが違うぞ。

 ここはカレン族とアカ族の象の村、生まれて初めて象に乗ることになった。高い象の脊中に乗るには、いったん死刑台のような高い台に登り、怖々背中にしつらえてある鉄の台に移るのである。高い高い。地上で見るのと全然違い、坐席にしがみつかねばならない。こんな状態で象が歩くの。

Photo  S氏と2人は、背の上の客用の坐席について、象使いの兄さんは首の上である。いざ出発すると象は地面をドスンドスンと踏みしめるように歩く。この乗り心地の悪いこと悪いこと、このまま象は山に向かって歩いていく。

 道は次第に細くなり原野を通って山にさしかかった。これはもう象の世界だから象使いはいるが、象の本能が芽生えてくる。 笹の中であろうが蔓が伸びた山であろうが、かまっていない。そりゃそうだ、山に入って背にいる客のことを考えている象がいるはずがない。

 象だって食べたい植物があるらしい。そんなときは1メートルほどの段差があってもドンドンと首を下げて草むらに降りていく。そうなると笹で身体を打つは落ちそうになるは、鉄枠を握って難行苦行である。この2時間は、歩いてはいないがドーンと重い疲れを覚える苦難であった。

  このあとアカ族とカレン族の村を案内してくれたが、サイモンがカレン族なのでみんなが顔見知り、どの家でも裏から、畑から入り込み気軽に話していく。織物をしているオバサンなども親戚づきあいであった。 

 それにしても象に乗るトレッキングって、半端な遊び事ではない。アユタヤあたりで日本の女性が象に乗ってイエーイなどとVサインをしているが、彼女たちをコック川の象に乗せてあげたい。

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出家をするこども達

 チェンライの町なかには、これといった見所は少ない。しいてあげるなら、格式のある ワットプラケオであろう。バンコクのエメラルド寺院と同じ名前を持つ、このワットプラケオ寺院も本尊はエメラルド仏である。

 ある時、市場の帰りにお参りをしたら、黄色の袈裟を着けた小さな子ども達が緊張の面持ちで集まっていた。 よく見るとどの子の頭もクリクリに剃ってある。集まった小坊主達はお寺の奥へ先輩僧に誘われ移動していく。その数ザット見て100名ほどだ。

 どうもお寺の入学式の様相に見受けられた。年齢に差はあるが小さな子供は小学校の低学年くらいである。

Photo  タイは90%以上が仏教徒であり、子ども達は一生に一度は、ある期間出家する風習があるそうだ。短期間であろうとも、この期間は修行僧なので、頭髪を剃り木綿の黄色の袈裟をまとう。

 修行僧の1日は、まず読経に始まり、次は裸足で托鉢に出る。(托鉢できなければその日の糧はない)  托鉢で得た食べ物をみんなで午前中にいただき、午後以降は食べることは出来ない。

 この修行のうちは僧侶として社会的にも敬われる存在なので、戒律は厳重に守らねばならない。戒律の一つに女性に触れてはいけないなんてのもあって、 妹にも母親にも触れてはならないことになっている。

 このような戒律や、規則正しい生活を徹底的にたたき込まれる場なのである。 家族とすれば、こどもが出家するということは、仏に仕えながら一人前の人間となるよう修行するのだから、とても嬉しことであり名誉なことなのだ。

 親の云うことも聞かず好き放題をしていたガキ坊主も、この期間だけは神妙らしい。托鉢中に道で父親に会うことがあったとしても、父親は手を合わせて我が坊主殿に頭を下げ敬意を払わねばならない。

 この修行中に戒律厳しいお寺で修行して、兄弟子や師である僧侶の厳しい指導を受けて、修行を終え還俗する頃には、見違えるような成長ぶりに家族は感激の涙を流すという。

 さて、ワットプラケオの奥の広場に集められたこども達は、ガチガチに緊張して私語など聞こえない。 広場の木陰では子供の門出を喜びながら、しばらくの別れに絶えきれず、涙するお婆さんやお母さんが、かなりの数に上っていた。

Photo_3 

 日本以上に超過保護に甘やかされて育てられていた我が子が、自分で仏門を叩いたとはいえ、今日からはお母ちゃんと呼んではくれない寂しさに、うつむいて泣いているのだ。

私も側にいるだけで辛くなってきた。

 タイの子供の出家は制度ではないから、出家をしない子供もいる。しかし社会的に認められているこの出家の風習は、子供から成人になる課程で、日本にもあれば人間形成に大きく役立つにちがいない。 と思いながらお寺を去った。

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メコン河よ どこへ行く

 メコンの流れは遙かチベットを発して、中国、ミャンマー、ラオス、タイを経てカンボジア、ベトナムと気の遠くなるような旅をして、南シナ海へたどり着く。

 ゴールデントライアングル(黄金の三角地帯)近くでタイと遭遇するこの大河が、チェンセンを通過し更に下流に至り、チェンコンと呼ばれる町付近でタイに別れを告げて、ラオス領深くに離れていく。

 この度メコン河が、しばらくタイに別れを告げる、チェンコンの町を訪ねてみた。チェンライのバスターミナルからは2通りのバスがあって、片道3時間30分と2時間の2系統である。このバスでうっかり3時間30分コースを選ぶと日帰りすることは覚束なくなる。

 だから乗車するときに何時間かかるかを、確かめてから乗らねばならない。田舎でも、そのまた僻地へ行くバスだから、ターミナルで最も古ぼけたバスを選べば間違いない。

 このバスは坐席が傾いていて乗り心地が悪い上に、道幅が狭くなり更にでこぼこ道だ。チェンコンに着いたのは2時間を45分も過ぎていた。こんな道をこんなバスでチェンライまで帰るのはまっぴらなので、計画を変更して帰路はチェンセン経由にすることにした。

 バスターミナルからメコン河へ向かう道がよく分からない。川は低いところを流れるから、坂を下っていけば当然メコン河に到達するはずだ。 ところがチェンコンの町は意地悪だ。 長い坂を下っていけば、また登りになっている。 悪戦苦闘の末メコン河の畔にやっと出ることができた。Photo 

当たり前だが、メコンはメコン、どこで見ても代わり映えはしない。しばらく歩くと川岸から斜面を利用して建てられたホテルがあり、賑やかな声が聞こえる。

 斜面の階段を下りてくる人も見受けられたので、当然登れるはずだ。

 登れば入口があるのはあたりまえ、ホテルでは、やはり立食パーティーをやっている。 ボーイにトイレを聞いてみると案内してくれた。

 案内されたのは大騒ぎのパーティー会場脇のトイレだった。トイレから出たところに長机が3脚ほど置かれ、ウエイトレスが飲み物を通る人達に手渡している。 エッ私にまで? そうですか。

 ナムコーンリバーサイドホテルを出て、時計を見ると2時30分、チェンライ行きの最終バスはあと1時間だ。 ここからチェンセンへは辺鄙なところなのでソンテウしか運行していない。ソンテウはどこだ。郵便局の近くにいたソンテウがチェンセン行きだそうだ。

 このソンテウには先客が3人ほど乗って発車を待っていた。運転手にチェンセンまで行くことを確かめて私も乗り込んだ。この間に運転手に悪い心が芽生えたらしい。30分待たせて、ヤツが私の所に来た。

 今日の客は近くの客ばかりなので、途中までしか行かない。そこから先はチャーターになるといいはじめた。 

 このソンテウがチェンセン行きの最終だから、無理にでも乗るに違いない。と足元を見のだ。その料金は800Bかかると本性を現わした。(800BあればバンコクまでVIPバスで帰れる金額) こうなると日本語しか分からない。

もうエエ、乗らん。と声は大きくなる。 ソンテウから降りると運転手は慌てて、500Bだ。こりゃあかんと、150Bまでさげたが、覆水盆に返らずカモは逃げたのである。近くで麺を食べていたトゥクトゥクの運転手をせかせて、バスターミナルまで駆けつけると、チェンライ行きの最終バスは後ろ姿を見せて遠ざかって行くではないか。 

 事態を悟ったターミナルのオバサンが、巨体をも顧みず自転車で徐行中のバスを追いかけ停車させてくれたのである。タイ人の優しさに今日も触れることができた。

それにしてもあの馬鹿運転手、私がチェンライへ行くとは思いもよらなかったろう。 旅にはこんな楽しみもあるのだ。 ざまぁみろ!

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