« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月

ホテルもホテルなら 客もまた

 この無愛想なホテル、白亜の美しいホテルの新館はピン川に影を映して誠に綺麗に見えるのだが、部屋まで上がってみるとスイッチはガタガタ、ソファーは破れ、清掃は行き届かず、おまけにトイレの電球は切れていた。

 こりゃいかん。選択を完全に間違った。すでにクーポンを切っていたので、今更ホテルを替えることも出来ない。 まあ、どんなことになるか分からぬが、勉強と思って体験してやろう。 この時点で腹立しさは薄れて何となく面白くなってきた。 夜はナイトバザール近辺で食事を摂ってホテルでふて寝する。

 ナイトバザールの近辺には、路上でフットマッサージをするグループが、観光客を目当てにあちこちで営業している。 2時間で1200円くらいになろうか、女性が元手なしにこれだけ現金収入を得る商売は、他にはなかろう。


 それでも着実に朝はやって来て、一階に近づくと何やら騒がしい。 レストランに恐る恐る近づくと、いた!  日本の隣の方にある大きな国の団体客ご一行様だ。 口角泡を飛ばす会話の騒々しいこと、まさに喧嘩腰である。

 こりゃあかん。  諦めてご一行様の食事が終わってから、改めて朝食を取る事にして、気の弱い二人は朝のピン川畔の散策に出かけた。 しかし、かの国の人たちは人間のスケールが違うのか、傍若無人というのか、早く云えば野蛮としか云いようがない。

 こんな身勝手な国民が蝟集している国なので、尖閣列島はうちのもの、体当たりをしておきながら、謝罪して賠償金を出せなど、厚顔無恥な要求までしてくるのだ。京都観光に来ている人によく出会うことがあるが、いい印象を持つようなことはない。この度の事件でいよいよ嫌いな国のランク度が跳ね上がった。

 もうレストランも空いた頃ではないかと、1時間ほどしてレストランに行くと、ご一行様は誰も残っていなかった。それだけではないぞ。  テーブルの上も床の上も残飯が散乱して足の踏み場もない。
 まるで廃墟さながらであった。この国の団体客がいつも泊まっているホテルだと知っていたら、絶対に泊まらないのにと嘆く二人であった。

 おまけにブッフェの料理は全部食べ尽くされて、何も残ってはいなかった。 従業員はどこから片づけたらいいか途方に暮れていた。 俺たちはまだ、食べていないのだが、どうすりゃいいの。「ダイアモンドリバーサイドホテル」 名前は一流だが、二度と泊まりたくないホテルのチャンピオンだ。

 しかし考えてみれば、団体客の国では、これが日常であり当たり前のことなのだろう。 それを見て非難している方が間違っているのかも知れない。 彼らにしてみればいつも通りだ、ほっておいてくれ! ということに違いない。

 他国のこんな状況を目にするのも、異文化の体験かもしれないが、こんな状態を理解し学ぼうとは思わない。レストランからの帰りに通った部屋では、退去した部屋のメーキングに従業員が絶望的な表情で苦戦していた。

| | コメント (0)

ダイアモンドリバーサイドホテル

 中国との関係が悪化している。自国だから身びいきしているのではなく、どう考えても舐められているとしか思えない。難癖を付けられている上に、日本が事を穏便に納めようとしているから、群島を失うだけでなく広大な経済水域を失いつつある。

 国内法にしたがって粛々と対処をしたい。などと日本政府はいっているが、大きな軍事力を背景に押してくる国にはもっと厳しく対してほしいものだ。日本には自国を守る自衛隊もあったはずだが、思い違いであったか。

  さて、タイという国にはホテルがたくさんある。バンコクには名のあるホテルは約320軒、チェンマイには約90軒のホテルが存在する。 これ以外にも小さな宿泊施設は数多くあるので、宿泊できないことは絶対あり得ない。

 旅で訪れて半分以上の時間はホテルで過ごすのだから、少々料金が高かろうが、旅を快適に過ごすことを考えると、ホテル選びには気を配らねばならない。
極端に安い料金を追ってみたり、電車やバスのアクセスを無視したりで、旅そのものを自分でぶち壊す事はままある。

 私の旅は一流のホテルなどは使えないのだが、従業員の接客態度や細かい心配り、朝食の内容などが、ある程度整っていないと、いいホテルとは云えないと思っている。

 だから、一度まずまずのホテルだと思ってしまうと、何回も利用することになる。 他にはもっと良いところが有るのだろうが、なかなかホテルを替えることへの踏ん切りがつかない。

 ある時、チェンライからチェンマイへ田原本のM氏と二人でポーヌン(一等)バスで移動した。ちなみに料金が少し安い二等の冷房バスもあるが、大きな違いは車内にトイレが着いているかどうかである。

 タイで有名なところは? と聞けば、多くの人はバンコク、チェンマイ、プーケットと答えるだろう。その中でもチェンマイは 「北方のバラ」 と云われるほど、みんなの人から親しまれ、季候が温暖で美しく、観光にも住むにも最適な街と云われている。

 タイの知人もいるにはいるのだが、私がチェンマイにあまり行かないのは、へそ曲がりの食わず嫌いだからである。

 今回は食ってみようかとばかりに訪れたのだが、以前宿泊して好印象を持ったホテルが満室との悲報をうけ、新たにナイトバザールにほど近いホテルを探すことにした。

 そして二人が探し出したホテルは、ピン川畔に立つ白亜の外観が美しい15階建ての「ダイアモンドリバーサイドホテル」であった。

 ホテルに入ってフロントでまず驚いた。20代の女性が二人いて、案内を乞うのだが、微笑みも見せず、返事もしない徹底ぶりである。
 こいつの笑顔なんか気持ちが悪くて見たくもないし、茶髪ももう少し染めようがあるだろう。

 チェンマイ市内の悪そうなやつを選んで採用したに違いない。そんなヤツでも部屋のキーだけは渡して、無言で指さした先はエレベーターであった。

 普通であれば、ボーイが荷物を持って部屋まで案内するはずだが、そんな気配は全くないので、勝手に部屋まで行くことにした。 それにしてもなあ。

| | コメント (0)

いろいろな旅があるもんだ

 サンクラブリーの旅を終えてバンコクに帰った翌日、エカマイからバスで、タイ人がこよなく愛するラヨーンへ向かった。  3時間あまりでバスターミナルについて、近くのスターホテルにチェックインした。

 さっそくサメット島の白い砂浜と青い海、大きな実を付けた椰子の木を求めて、バスターミナルの片隅に隠れるようにひっそりと停車しているソンテウで、サメット島対岸の村バーンペーまで行った。 約20分走ると港特有の海の匂いが、あたりに広がり懐かしい。

 サメット島までは約40分の船だが、渡船会社がたくさんあって客引きが煩い。
私は船といえば日本ならば白いものだと信じ込んでいたのだが、タイの船はそうではなく、赤と青が基調となった派手な彩色である。

 この海で捕れる魚だってそうだ、えげつない赤や青、見事な色彩の大きな熱帯魚だ。間違っても刺身にして食べようなど思わない。

 まあ、いろいろなことを考えながら南タイのリゾートとは一味違った、サメット島に上陸した。どこまでも続くホワイトサンドビーチ、藍色の海、椰子の木の林、何と気持ちのいいリゾートであることか。

 あー また来てしまった。いいオヤジがタイ有数のリゾートを一人で訪れて、なにしとるんじゃ。この美しい島にはミスマッチだと、自分でもわかっていますって。 でも、魅力的なんですなあ。今回もやはりロマンチックな風景の素晴らしさに反比例して、気持ちは落ち込んでいった。

 

 タイ国際航空の時刻改正で大阪に向かうのは一日4便になったのだが。 1便はマニラ経由で、お昼の直行便、残りの3便は23:00~23:50のたった50分間に、渡り鳥のようにつながって飛び立つ不自然さだ。したがってほとんどの客が、深夜便となってしまった。 

 深夜便に乗り込むと、私の座席の横には60台のご夫婦が座られていたが、開口一番トイレが近いので夜はご迷惑をかけますがよろしく、とのご丁寧な挨拶をいただいた。

 長年働いた会社を定年前に退職し、親の介護をしてきました。親には「死んだらあかんで」と言い残して夫婦で旅に出ました。
 そして、北タイのチェンマイから始めてスコータイまで、51日間をかけて、タイの歴史を探る楽しい旅が出来ました。  もう生涯、こんな旅は出来ないでしょう。と二人は寂しそうであった。

 老いた親の介護が続き、展望のないこれから先を見据えて、二人が行くなら今、と心に決めての旅は、介護を経験した者にしか分からない。 私も昨年10月に老父を亡くしたのでよく分かる。
 それだからこそ、これから長く続く介護を思って、ご夫婦の思いきった旅が充実したものであったことを心から喜んだ。

| | コメント (0)

サンクラブリーを去る

 時差が2時間あるとはいえ、 夜明けは日本より遅い。 それでも6時40分頃から、ちらほら客が集まり始めた。  私は市場でいつも非常食にしている、パトンコー(中華系の揚げドーナツ) を仕入れて、出発に備えた。

 この時間になって、若い白人の男女がやってきた。  特大のリュック2個と自転車2台、そのほかに女性の荷物1個をバスに積み込むのだ。これは重装備である。

 バスの下の荷物を積むスペースも、これだけ積むと他の乗客の荷物は殆ど積めない。 
 みんなの荷物が載らないから、定刻になってもバスは出発できない。 しかし、さすがタイ人、運転手も周りの人も非難と侮蔑の苦笑を交わして我慢していた。寛容を旨とする微笑みの国の真価を見た。

 でもタイ人乗客や私などは、荷物を網棚や通路に分散されて、大きな迷惑を被った。まあ どこの国にもデキの悪いのはおるものですな。動き始めた車中でも、くだんの白い馬鹿者男女は傍若無人の態度である。

 色が白くて英語を話す人間がそんなに偉いのか、馬鹿にしたらあかんで。誰が英語を世界の共通語にしたのか本当に腹立たしい。しかし私など戦前生まれの人間は、敗戦によって白人に対する屈辱感を、嫌になるほど味わってきた。

 だから白人だ。 と言うだけで頭に劣等感がむくむくと沸き上がり、ヘナヘナと弱気になるこの習性が無性に悲しい。

 このバスはカンチャナブリーを通り過ぎて、バンコクの北バスターミナル(モーチット)まで行く一日三便の貴重なバスである。

 もし、終点まで乗って車酔いしなければ、バンコクに寄らずどこか遠くに行ってやろうか。
それなら、モーチットからも出ている、海に近いラヨーンまで行って、サメット島でも悪くない。 さてうまくいくだろうか。

 往路で苦労した悪路を、悲壮な思いで走破して、バンコクの北バスターミナル (モーチット) に着いたのは、出発して8時間後のことであった。

 これから更に3時間30分は、さすがに辛い。迷いはしたが、心ならずもバンコクで、急遽ホテルを探すことにした。ところが運悪くこの日は金曜日だったので、ホテル探しは思うようにはいかず手間取った。なかなか思い道りいかないのも、緻密な計画を持たない一人旅の楽しみである。

 

| | コメント (1)

暗闇は犬どもが支配する

 午前6時10分になって、やっと清掃をするおばさんが現れた。 さっそく料金と鍵を渡して帰路についた。 大きな声で話しながらランプの明かりを頼りに、モン族の人達が木橋を渡ってくる。どんな仕事を持っているのか知らないが、数人のグループが三々五々に続いてくる。

 確かに古い木造の橋を暗闇で渡るのは、単独では非常に危険なので数人での行動であろう。

 日本より夜明けが遅く、まだ漆黒の闇のなかで灯りを持たない私は、断りもなくモン族グループの人達の後について歩いた。グループの中に入ったことで、どれほど助かったことか。それは凶暴な野犬の群れである。 十数頭の野犬が吠えまくり犬相をかえて威嚇するのだ。

 野犬どもは、闇から湧いて出たのかと思うほどたくさん出没する。タイの犬は暑さを避けるため、日中は木陰などで怠惰に寝そべっていて、暗くなれば突然目覚めて夜の街を支配するのだ。

 こんな野犬でも縄張りがあるのか、50メートルも遠のくと追っては来ない。ヤレヤレと安堵すると、新たな群れが待ち構えていて吠えまくる。 市場に行き着くまでに4つの群の脅しにあった。  もし私一人であればとてもじゃあないが、夜明けが来るまで歩けなかったであろう。

 モン族の人たちが時間を合わせ、グループで坂道を上り、市場に向かう事がよく分かった。 こんな時間に外国人客の一人歩きなど、絶対に出来るものではない。 日中はなんでもないのだがなあ。

 やっとバスの停留所のある小さな市場までやってきた。20人ばかりの人たちが、朝の商売の支度をしていたが、食材はあるが食べられるものは、緬を食べさせる店が一軒開いていただけだった。
毎日のように犬に脅されながら、30分もかけて山中の急な坂道を歩いて来なければならない生活なんて、嫌になることがあるでしょうな。

 前にも書いたことがあるが、この犬どもは予防注射など気の聞いたものはしていない。
「犬に噛まれないように注意をしましょう 」 と日本の外務省は、ふざけた安全情報を流している。  注意をしたら噛まれることはないのか。 外務省の役人なんか、デスクに座って作文していれば勤まるらしい。

 こういう現場に遭遇すると、私も狂犬病の予防注射をしておく必要を感じることがある。
帰国後、ある保健所で狂犬病の予防注射が受けられますか。とたずねたら、申し込んでいただいたらやりますよ。 と快く言ってくれた。

 それではお願いします。と云うと、わかりました。今日がちょうど予防注射の日ですから、犬を向こうの建物に連れて行ってください。?  ヘッ 受けたいのは私なんですが。
狂犬病の予防注射が受けられる対象は、犬だけであった。

 では私はどこで受ければいいでしょう。 とたずねると、さあ大きな病院にでも行かれたらどうでしょうね。 ですって。 

| | コメント (0)

得難い経験をした

 敷地内の客のいない野外のレストランに夕食に出かけた。 私が近寄ると店員はさりげなく離れていく。 イジメダ! 久しぶりに完全に敬遠されている。 先刻レストランの終了時間を聞きに行ったとき、会話が全く成り立たなかったせいである。

 店の奥から20代の女性が押し出され、タイ語のメニューを持ってきた。 メニューなど持ってきても読めるはずはない。 お互いにそのことが分かっているだけに、困ってしまうのだ。

 ところが私は余裕である。彼女を横に座らせてポケットから取り出したのは、自作の日本語とタイ語を併記したメニューである。 このメニューは料理の内容も書き込まれ、私の好きな料理しか書かれていない優れものである。

 好きな料理から順番に書いてあるので、上から順に作ることが出るかどうか、聞いていくと注文は簡単にできてしまう。
幸い彼女は数少ないタイ人だったので、文字は読むことが出来た。 注文したのは「焼きイカのライムサラダ、豆腐のスープ、豚肉とカシューナッツの炒め物、茶碗蒸し、ご飯」それにビールである。 どうだ、まいったか。

 暮れなずむ湖と水上家屋の、ほのかな灯りを眺めながら、至福のひとときを過ごすことが出来た。みんなの犠牲として送り出された彼女は、途中で蚊取線香を持ってきたり、ビールをつぎ足してくれたり、なかなかの気配りで全く申し分のない夕食であった。

 気が付けば若者のグループが二組やってきて、食べる飲む歌うで気勢は盛り上がるばかり、大騒ぎになってきたので切り上げることにした。どこへも出ることが出来ない山中なので、やむなく私は小屋へ引き上げた。

 その夜感じたのだが、バンガローなんか壊れかけた南京錠はあるが、セキュリティーなどは無いに等しい。 あまりにも暑いので、冷房を入れたが、窓や板の隙間などから熱気が入るので何の役にもたたない。 何よりも困ったのは、どこからはいるのか蚊が多い。

 その上、誰かが夜中に歩き回る足音がする。 犬が近寄りウーとうなり声をあげて、扉に体当たりまでする。
気になって、眠ることすらできない。旅の貴重品を抱えて、まんじりとも出来ず朝を迎えた。山深い寂しいバンガローなんか、聞くのはよいが並の人が泊まるものではない。

 静かな山のバンガロー、と聞くと何かロマンチックな感じがするが、ホテルではないので、早朝など誰も起きてはいない。  7時のバスに乗るには、まだ暗い6時頃にはチェックアウトがしたい。事務所など誰も起きてこないが、料金は支払わなくていいの。 そりゃあこんな小屋だから必要はないか。 それでもバンガローの鍵は誰に返せばいいのだろう。

 

| | コメント (0)

別世界に来たようだ

  太陽の光が容赦なく降り注ぐなか、モン族の作った長い木橋を渡ってみた。
歩行者以外は自転車さえも通させない橋は、遠くから見ると美しく、なかなか趣があって素晴らしい眺めである。

 しかし実際に渡ってみると、板は半ば腐って穴が空き、手すりは折れて垂れ下がるような、大変危険な代物であった。橋の中程まで来たとき、下の湖面から声が聞こえる。
板の破れ目から覗くと、橋桁にひっかった草で出来た、浮島にボートをかけて父親と息子が釣りをしている。

 ジュースの缶にテグスを巻き、釣り針に餌を付けての手釣りだが、浮き草の下が絶好のポイントと見えて、30㎝ほどの魚が次から次に釣れてくる。夕食のおかずには多すぎる。
座り込んで板の隙間から飽きもせず眺めていたら、首だけが紫外線に焼けて真っ赤になってしまった。

 父と子が和やかに話をしながら、夕食のおかずを釣っている姿は微笑ましく、時間を忘れて見ていたが、彼らは橋の影になって快適、私は橋の上のカンカン照り、まったく馬鹿なことをしていたものだ。

 橋を渡りモン族の村からオートバイの後ろにまたがり、島で有名なインド様式ワットなんとかと言う寺と、チェリーブッダガヤを訪れ、一応敬意を表したあと村を散策してみた。いくらモン族ばかりの村と言っても、衣装と言葉の違いでだけで穏やかな人達ばかりだった。 

 橋のたもとまで帰ってくると、小学生くらいの女の子が6人ほど大声を上げながら、盛んに高い木をめがけて石を投げていた。石が当たった茂みからはパラパラと小さな実が落ちてくる。近寄ってみると懐かしい棗(ナツメ)の実だった。子供の頃私も同じように棗の実を落としてよく食べたものだ。

 帰途も長い木橋を渡るのだが、夕方になって涼しくなったせいか、仕事帰りの時間になったせいか、ビルマの衣装(ロンジー)を身につけた男性、タナカーを顔に塗りたくった女性達、色あせた僧衣を身にまとった僧侶、賑やかな子どもの群れなどが橋を渡ってくる。 

 ビルマの国境近くの山あいにある、海のような湖の入り江に渡された、850メートルにも及ぶ古い木橋、なんとも夢のようなで穏やかな風景であった。

 木橋を渡りきったところで、「オーマイフレンド」 と声がかかった。  カンチャナブリーで声をかけ、サイヨークで立ち話をした白人の夫妻であった。

 お二人は英語しか話せず、私は日本語しか話せない。 でも英語が話せずとも卑下することはないぞ。 彼らだって英語だけなのだからお互い様である。この時まで互いに国籍など話していなかったので聞いてみた。

 アメリカですか? ノー スコットランドと誇り高い。 そして私は台湾人と思われていたらしい。
 弱ったなあ。スコットランドかあ。  実はカンチャナブリーの鉄橋を建設させられていたイギリス軍が、スコットランド第93大隊の捕虜で、ほぼ全員が死亡しているのだ。

 やはり彼の父親がここで戦死をして、連合軍墓地に眠っている。夫妻は5年に1度はカンチャナブリーを訪れて、父親の御霊に祈りを捧げているそうだ。 また私の弱気の虫が動き出したが、夫妻と一緒に写真に収まって和やかなひとときがもてた。

 それにしても、サンクラブリーのバス停で手を振って別れた二人に、またモンブリッジで再会した。生涯二度と逢うことはないだろうが、と思いながら再び別れた。奥さんは綺麗、ビルマに沈む夕日も実に美しかった。

 夕焼けのあの山の向うで、ビルマの竪琴を奏でていた、水島上等兵を思い出しながら、平和な時代に生きて、こうしてビルマの近くにいることを感謝した。

 まことに残念ではあったが、20キロメートル西にあるスリーパゴタパスへは、時間もなく、移動手段の確保も出来ず、国境からビルマ戦線を偲ぶという目的は果たせなかった。

| | コメント (0)

眠ってしまえば どこでも同じか

 バンガローで簡単に荷物の整理をして、今日の行動を考えてみた。 バンガローから坂道を5分も下っていくと、湖と入り江にかかる古い木造の橋がある。  この木造の橋は、モンブリッジと名付けられた対岸に渡る850メートルの橋である。

 橋の向こうはモン族の人達だけが生活する村で、橋が唯一の交通手段となっていて、人の絶えることはない。 まず第一にこの橋を渡ってみよう。

 そのあとは、落ち着いて夕食をとろう。 ア!  夕食の食べられそうな所は、このホテルの、野外レストランだけしか見あたらなかったぞ。

 いま見るところではレストランには客の姿は見えないし、何時まで開いているのか分からない。 外出中に閉店されたら朝まで食べるものがない。 そんなことになったら一大事だ!  この時間の確認をするのが何より大切である。

 さっそくレストランに行って、レストランの閉店する時間を尋ねたが、全然話が通じない。 これまで何とか通じた片言のタイ語が用をなさないのである。 考えてみると彼女たちの言語は、ビルマ語かモン語のような気がする。意思の疎通に苦しむ、が 何とか8時頃閉店と推察された。

 タイでこれまで、怪しげなタイ語を話してみて、その意がタイ人に通じていると錯覚していたのだ、と気づいて愕然とした。言葉が通じていたのではなく、タイ人がこうではないか、と推測してくれていただけなのだ。

 日本語しか話せないオジサンと、タイ語も英語も分からぬお姉さんが、話をしようとするのが間違うてた。そうと分かれば簡単な事だ。冷静になって観察すると野外レストランには、たくさんの照明ランプが設置されている。 暗くなっても開いていると言うっこちゃ。

 三番目は、明朝のバスの出発は午前7時、このバンガローから登り坂を歩いて、どれほど時間がかかるかを確認しなければならない。
暑い峠道をを黙々と歩き続けて、約30分でバス停のある市場に到着した。 こんな遠くまで旅に来て、何をしていることやら。

 小さな市場をウロウロと私が見ていると、ロンジー(男性用のスカート)をはいたお年寄りや、足首まである長いスカートの女性達が、私をじろじろ観察している。 本当は私がいろいろと眺めに来ているのですが。

 集落のはずれにある一軒の家の前で、ピーンときた。文字は全くわからないが、ここは古式マッサージ屋の感じがする。
旅に出るとかなり大胆になる。間違ってもともと、誰もいない奥に向かって声をかけると、怪訝な顔をした女性がでてきた。

 ここはマッサージ屋ですか?(無言)   ヌワッペンボラーン? (無言)
仕方がないので肩を揉むジェスチャーをすると、上がるように促された。 彼女が無言なので、聴力に障害があるのだろう思った。 躊躇はしたが長旅の疲れを癒したいので、マッサージを受けることにした。

 そして可もなく、不可もないマッサージを2時間。 彼女に障害があって話せないと思っていたのだが、そうではなかった。 ただタイ語が分からないだけだった。
彼女はモン語しか理解できなかったのだ。 でも数字くらいは分かるよ。と笑っていた。

 こんな辺鄙な山奥で、2時間300バーツの料金でお客はあるの、と聞いてみると、観光の客だけだそうだが、まあ当然でしょうな。

 料金300バーツは、オーナーが240バーツ、彼女が60バーツを取るシステムらしいが、現金の収入があるだけ有り難いと云っていた。  かなりの搾取だ。
 

| | コメント (0)

サンクラブリーという町は

 バスを降りた町の中心地には、頬にタナカー(水で練った白い木の粉)を塗って背には籠を担いでいる女性。 男性はズボンではなく、ロンジーと呼ばれる巻きスカートを着用して、することもなくぶらぶらしている。 これはまさにビルマ(ミャンマー)の衣装だろう。

 ビルマと接する山の中での移動手段は、時々通る国境行きのバスと、モトサイ(オートバイ)の後ろに乗って、しがみつくしかない。 これでは広範囲の行動は絶対に出来ない。

 とすると、非常に大きな湖の、小さな入り江の一点にたどり着いたにすぎない。これだけでサンクラブリーまで行って、幻想的なカオレム湖を見てきました。など臆面もなく云えるものではない。

 この時点でどうせ、いろんな所の見学が出来ないようだし、移動手段も見あたらないので、サンクラブリーを一泊で去る気持ちを固めた。

 さて、ホテルは?  湖の近くに泊まりたいと思うのだが、少し中心地から離れると人家はなく、広い山道だけが続くのだ。 何もない山道をただ歩くだけで大丈夫か。 どこにも宿泊予約などしとらんぞ。

 市場の前にいた、バイクの兄さんの後ろにしがみついて、湖の入り江を渡る木橋(モンブリッジ)まで乗せて貰うことにした。 70歳過ぎた後期高齢者予備軍の、おっさんともなると大きなリュックを担いで、バイクの後ろに乗るなど命がけである。

 2月とはいえ熱帯の国である。気温は35℃くらもあるので、熱い山道を歩くことも叶わず。乗ったバイクは恐いけれど楽である。
 
 湖の畔にあったホテルは 「サンプラソップリゾート」 、立派な名前ですねえ。 見渡しても他にはホテルが見あたらず、ホテルが満室ならどうしよう。 
ホテルのフロントらしきところが見あたらず、屋外の食堂に女性が3人見えたので、今日泊まりたいのですが部屋はありますか?  こんなホテルでも部屋は満室らしい。

 泊まるだけならありますが。 泊まれたら十分だ、ぜひお願いしたい。こんな山間部では次の所を探すにも、またモトサイを探すところから始めねばならない。
女性に案内をされたのは、 エー ここですかあ。これは小屋じゃあないですか。

 子どもの頃、土蔵の上にある稲束置き場で昼寝などをしたような事を思い出してしまう。
最近はこんなのをバンガロウーと云うそうだが、こんな小屋にお金を出して泊まるのは初めての経験だ。

 気を取り直して中にはいると、板床にはあまり美しくないベッド、生意気にテレビ、エアコンまで用意されていたが、部屋の窓ガラスが割れていたので、エアコンなど仰々しく置いてあっても何の役にもたたない。

 奥の扉を開けてみるとホットシャワー、トイレがあって、何とか夜露はしのげそうだったので、諦めて泊まることにした。

| | コメント (0)

これでは捕虜が死んでいくはずだ

 駱駝のコブか桂林か、何と表現したらよいのか困るような、掘削された岩山の間をバスは曲がりくねりながら登っては降りていく。 バスに弱い人には非常に辛い旅である。

 この石灰岩が踊り狂ったような山々を、タイでは国内有数の景観というそうだが、景観とは眺めて素晴らしいのであって、実際に通過するとなると大変である。   この道をもう一度通らない限り日本には帰れないと思うと、悲壮な気持ちになって落ち込んでしまう。

 山から降りるたびに、左側に湖が垣間見えるようになってきた。 カオレム湖である。
このカオレム湖の広さは琵琶湖に匹敵し、タイで一番大きな湖として有名だ。入り江の屈曲が激しいので湖全体を見渡すことは出来ないが、それぞれの入り江には必ずと言っていいほど、水上家屋が数十軒浮かんでいる。

 竹を組んだ上に作られている家は、船で引けばどこえでも移動でき、光熱費も住民税や固定資産税もかかってこない。羨ましい限りだ。

 サンクラブリーを訪れるのは、1月か2月が最もいいと云われている。  雨季には水没する所も出るし、道路に落石や崖の崩壊も起こって、唯一の交通機関であるバスも不通になることも多い。
 あちこちに散在する水上家屋は、美しい風景のなかに、とけ込んでいるが浮き桟橋の役目もしているのだ。

 カンチャナブリーを出てから4時間30分、サンクラブリーの小さな市場前で今日のバスの旅は終わった。   バスはまだ続きの仕事があるとみえて、我々を降ろすと2人の乗客を乗せたまま走り去った。

 先ほどのバスの終点は、三つの仏塔のあるパヤートンズの村で、ビルマとの国境はここにある。この国境を更に越えて進むと、映画 「ビルマノ竪琴」 の舞台である密林近くに出る。ここには何と今でも泰緬鉄道のレール跡が残っている。

 こんな峻険な山を掘削して、一年もかからず鉄道を完成させたのだから、連合軍の捕虜はもとより近隣の国々から集めた労働者には、多数の犠牲者が出るのは当たり前であろう。

 バスを降りた小高い丘の上の集落は、サンクラブリーの中心地となっていて、小さな市場とわずかな飯屋、雑貨屋が全てであった。

 昼食ができるレストランなどは全くないし、小さな屋台で皿に盛ったご飯の上に、適当なケーン(カレー味の汁おかず)をドバッとかけて食べたが、人間は他に食べるものがないとなれば、何でも美味しく食べられるものだ。

 帰路の確認をするため、停留所のおばさんに尋ねてみたら、 毎朝7時にバンコクの北バスターミナルへむかうバスがあるそうだ。 次のバスは昼過ぎになるかなあ。とまったく頼りない。

 サンクラブリーに到着はしたものの、こんな山の中で宿泊など出来る所があるのか、まことに不安である。

| | コメント (0)

泰緬鉄道に沿って山上の国境へ

昨日バンコクからカンチャナブリーへバスで2時間、ここでのホテルは 「リバークワイホテル」 に決めていた。 その理由はバスターミナルから近いことと、TATが近いことだった。

 朝食を終えチェックアウトをすませ、熱いアスファルトの道を10分ほど歩くともうバスターミナルであった。 バスの発車時刻は午前7時30分、色々な人が集まりはじめていたが、外国人は私と白人夫婦の三人だけであった。

 今日も快晴、山道にはいると一帯が霧に覆われていた。時折霧の晴れ間から見える山は、ギザギザの形の奇岩が連なり、まさに青年期の山であった。
霧の中を走り続けたバスは、カンチャナブリーを出て1時間30分でサイヨークの村に着いた。

 この村でトイレ休憩に入ったのだが、食事もここでとるらしい。  まだ9時だぞ、昼食には早すぎるではないか。これは朝食抜きで乗車した人への配慮と、ここから先は人家が途絶えて、食べるところが無いかららしい。やはり深山幽谷を汽車は這い登って国境へ向かっていたのだ。

 このサイヨークから脇道を入っていくと、ごっつい国立公園があって、滝と密林で有名なばかりではなく、豊かなモンスーン林には鹿や栗鼠も数多く生息していて人気を集めているそうだ。
この自然林を中心にした国立公園には、バンガローなどの宿泊施設も整っていて、若者達がたくさん利用しているらしく、かなりの若者が下車をしていった。

 そのせいで、バスの乗客は半数近くになってしまった。 再び動き始めたバスは急勾配になった道を、あえぎながら登っていくが、最初の坂を上り詰めたとき、道はバリケードで遮断されていて、銃を持った兵士の検問を受けることになった。

 車内に入ってきた4人の兵士の検問は、いつものおざなりなチェックではなく、本格的であった。バッグの中の荷物をすべて出されて検問所へと指示されるオバサン、私の後ろの30代の女性はミャンマーのIDがコピーだからと検問所へ、よく分からないがあと二人は口答えして検問所で尋問を受けることになった。

 それでもバスは何事もなく尋問中の客を置き去りにしたまま出発した。 運転手も他の乗客も平然としていた。 こんな事は日常茶飯事なのだろう。 日本であれば人権問題と大騒ぎになるケースだ。

 私はバンコクでは、パスポートのコピーだけをポケットに入れているが、バンコク以外へ行くときは必ず本物のパスポートを携帯するよう心がけている。
田舎に行くときの飛行機さえもパスポートを必要とするし、ホテルのチェックインや検問にも本物でなければならないので、用心に越したことはない。

| | コメント (1)

 足が動く間にサンクラブリーへ行こう

 タイ西部のビルマ (ミャンマー) と接する山の中に、ビルマ人、モン族、カレン族、タイ人が混じって生活しているサンクラブリーという町がある。
このうちビルマ人、モン族、カレン族はビルマの軍事政権との、内戦から逃れてタイに永住している難民である。

 ビルマという国は、1945年に軍事政権がミャンマーと改称する前の国名であるが、私はあえてビルマの国名を使っていく。

 少数民族が町の大部分を占め、山また山の奥地にあって、琵琶湖に匹敵する広大な湖を持つサンクラブリーの町は神秘的で、一度は訪ねてみたいものと思っていたのだが、なかなか実現にはいたらなかった。

 第二次世界大戦の時、旧日本陸軍が泰緬鉄道(タイ・ミャンマー)を敷設するために連合軍捕虜やアジアの近隣国民を使い、20万人以上の死者を出していたから、当地の対日感情も決して良いものとは云えない。

 先日カンチャナブリーを訪れたとき、鉄橋上の細い道を歩くと対岸から帰ってくる夫婦と娘が二人こちらに歩いてきた。 さあ困った。すれ違う相手は被害者側の家族、私は加害者側の国民、嫌だったなあ。

 だが考えてみれば何も困ることではない。日本だって非戦闘員を空爆や原爆で無差別に殺されているのだ。戦争とはそういうものだ。とは思うのだが狭い鉄橋ですれ違うときには、自然と頭が下がっている自分に腹が立った。

 オランダ、オーストラリア、イギリスの人々が毎年、親族の慰霊のため数多く訪れている。日本兵だって同じように数え切れないほど死んでいるのだ。
 よーし今回はこの泰緬面鉄道のコースを辿り、ビルマの国境まで思い切って行ってみることにしよう。

 国境のサンクラブリーの町へは、飛行機がないのでバスに頼らなければならない。私はバンコクの南バスターミナルからの出発である。

 南バスターミナルからサンクラブリーへの直行バスがないので、カンチャナブリーで一泊して再スタートしなければならない。

 ガイドブックによると、カンチャナブリーからサンクラブリーまでは、道路でどれだけ不測の事態が起こるかにもよるが、バスで6時間くらいだそうだ。 うーん6時間か、これでトイレ無しのバスなら少々きついぞ。

 それにしても、不測の事態なるものが、しょっちゅう起こっているのだろうか。

| | コメント (0)

タイに残る戦争の傷跡

 カンチャナブリーの項でも書いたが、戦争末期のビルマ(ミャンマー)戦線に、武器弾薬、食料などの戦略物資を輸送するため日本軍は、トンブリー地区のバンコクノーイ駅からビルマのラングーン(ヤンゴン)までの、鉄道建設に着手した。

 この無謀な工事に携わったのは、連合軍の捕虜、日本軍、労働に応募したインドネシア、タイ、マレーシア、ビルマなどの労働者あわせて、414,000人にのぼった。 そして、この難工事で命を落とした人は、全体で200,000人を超す事になったのである。

 この鉄道敷設工事では、問題にされるのが捕虜の扱いであったが、イギリス兵の捕虜の様子が最もよく知られている。「戦場に架ける橋」の映画に登場するイギリス兵は隊列を整えて、クエイ河のマーチを歌いながら、鉄橋建設の現場に向かって行進し、体力を消耗し尽くして命を落とす兵が続出したのである。
 
 この映画の中で歌われるれる勇壮なクエイ河のマーチは、こんな悲惨な捕虜が命を縮めながら、気持ちを鼓舞する場面で使われたマーチであった。

 これほどの犠牲の上に敷設された鉄道であったが、次第に戦況が悪化して輸送する物資も送れず、日本が降伏するという形で終戦を迎えたのであった。

 昨年の正月に、2回目となる映画 「ビルマの竪琴」 を見て、また涙が出て止まらなかった。ビルマの密林でイギリス軍の掃討に合い、逃げまどう日本兵の部隊が戦死と餓死で次々に倒れながら終戦となる。

  捕虜となった日本兵は生きて日本に帰れたが、囚われの身を恥とする多くの日本兵は密林の中に、あるいは逃走する道々に累々と屍をさらした。

 中井貴一が扮する水島上等兵の部隊は捕虜となる道を選んだが、戦場で死んだ若い兵のポケットから覗いていた、妻と子どもの写真をみて、水島は望郷の念を涙ながらに捨ててビルマの僧侶となった。
途中で出会ったビルマ人に、あの山を越えればもうタイの国だ。タイは交戦国ではないから、あと少し頑張りなさい。そしたら生きられると励まされていた。

 この映画の背景に流れていた、「埴生の宿」の旋律は、水島上等兵が奏でる竪琴や、日本兵が歌う合唱によって心に染みわたり、同じ世代に生きた者としたまらなく、涙を禁じ得なかった。

 「あの山を越えればもうタイの国」と呟きなが兵は息絶えていった、日本の若い兵士には申し訳ないが、その山の上の国境からビルマ戦線を眺めることで、往時を偲んでみたい。

| | コメント (0)

強者達が夢のあと

 ソンテウは直接鉄橋には行かず、近くを通過するだけで、最寄りの場所が分からない。
「俺の降りる場所はどこだ!」と叫んでみてもどうにもならない。 ピンチである。 このピンチに手をさしのべてくれたのは、隣に座っていた買い物帰りのオバサンであった。
 
 彼女はソンテウが、鉄道の踏切に差しかかった時、棒で屋根をガンガンとたたいて、ソンテウを停車させると私に微笑んだ。 弱いんだなあ。 たまらなくタイが、そしてタイ人が好きなのはこれなんだ。 料金16円を運転手に渡すと、ソンテウは忙しそうにどこかへ走り去った。

 地図から考えるとクワイ河は、鉄路に沿って左に歩けば到達するはずである。淡い緑の木立の下を10分ほど歩くと、大きな河に行き着いた。そこには樹木に覆われた美しい駅と、長くて立派な鉄橋が見事な景観のなかに収まっていた。

 駅には私が生まれたころ製造された、日本の機関車C56が、軍役を終えて展示されている。目を河に転じると、川を流れる水はタイには珍しく青く澄んでいた。
 そして頑強に作られた鉄橋。この工事に携わった捕虜達は、一日の仕事を終えると隊列を作って宿舎に向かったのだ。

 映画では、隊伍を組んで宿舎に向う時に「クワイ河のマーチ」を歌いながら帰って行くシーンが、何度もでてくる。
 この「クワイ河のマーチ」は、学校の運動会や甲子園の行進などでもよく使われた勇壮な行進曲だが、私は当時の捕虜の過酷な日々が頭をよぎり、複雑な思いで聞いていたものである。

 歩いて鉄橋を渡ってみた。 そこには多くの白人の観光客も歩いていたが、この鉄橋がどのような状況で作られたのか、自国の兵士がここでどれほど命を落としたかを承知して来ているに違いない。鉄橋上で行き交う毎に、気持ちが落ち込む私であった。

 この鉄橋は今でも1日に、列車が4往復走っているので、列車と遭遇した場合は、鉄橋上に避難が出来るような場所が作られている。鉄橋を人が歩くことについては、公に認められているのでまったく問題はなかった。

 この鉄道は現在、バンコクからクウェー河鉄橋駅を通り、4駅先のナムトク駅まで運行している。戦争中はこの先、日本軍の手で、深い谷を延々とはい登り、サンクラブリーからビルマ(ミャンマー)へ軍需物資を運んでいた。

 今回の旅は日本の国が、他国において戦争といえども多くの戦死者を出し、お国のためにと、あたら若い命を落としてしまった。今の平和な日本に暮らす者として心から鎮魂の意を表したい。

 ※ 蛇足ながらクワイ河の、クワイはタイ語では卑猥な言葉なので、クウェーと発音した方が良い。

| | コメント (0)

カンチャナブリーは気が重い

 何度もタイを訪れたが、これまでタイの深南部と呼ばれるマレーシアと接した南タイと、ビルマ (ミャンマー)に近い西部タイには殆ど行っていない。

 南タイはマレーシアと同じくイスラム国家で、パタニ王国と呼ばれた時代があって、今またタイから分離独立を唱えて、イスラム過激派がテロを活発化させていて、危険きわまりない。6年前からテロによる死者は、4100人を超している。

 このあたりは日常マレー語を使っているが、学校では当然タイ語の教科書で授業を行う。言い方は悪いが、坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い、の例えのように、学校の先生がタイ語を教えることは独立に逆行するとの観点から、テロの標的にされ死者も多く、教育にも大きな影響が出始めている。これではのんきに旅などしてはおれない。

 西部タイは、日本が過去に戦争とはいえ大きな被害を与えた地方だ。 しかし私も高齢と呼ばれる歳になってしまった。今思い切って出かけないと体力的に、もう行くことが出来ないかも知れない。いつまでも避けてはいられないなら、思い切って出かけるか。

 第二次大戦中に、日本軍はタイのカンチャナブりーを経て、ビルマ(ミャンマー)の戦線まで、弾薬食料を輸送する計画を立案し、鉄路をビルマに向けて建設していったのだ。

 気が遠くなるような難工事を完遂するに当たって、日本軍は連合軍の捕虜を使って、カンチャナブリーのクワイ河に鉄橋を架けさせた。これが映画にもなった有名な「戦場に架ける橋」である。この鉄橋建設で犠牲になった彼らは、カンチャナブりーにある連合軍墓地に今も眠り続けている。

 この工事は日本軍の酷使により、英国、オランダ、オーストラリアの捕虜と周辺国労働者あわせて 92,080人が死亡した難工事だった。
 
 覚悟をして来てみたものの、こうゆう過去の歴史を考えると、加害国の国民として心は非常に重い。何回もタイを訪れながら、カンチャナブりーを避けてきたのはこんな気持ちがあったからである。

 バンコクのトンブリー地区にあるサイターイ(南バスターミナル)から、カンチャナブりー行きのエアコンバスは15分毎に出ていて、列車で行くより遙かに早く、約2時間で到着した。到着と同時にいつもと変わらず、トゥクトゥクやソンテウの運転手が集まってきて、客の奪い合いをしている。

 私は近くにある TAT に出向いて、市内地図を手に入れ、あわせて助言を得た。二つめの信号付近からオレンジ色のソンテウ2番に乗ればいいそうだ。そこにはオレンジのソンテウが5台ほど停車しているから、これに乗れという。

 クエイリバービレッジまではいくらだ。と聞くと、案の定200バーツ(600円)だ。 誰が乗るかい。ソンテウは乗り合いなので、チャーターしてはいけない。

 しばらく道路脇に立っていると、客を乗せたて2番のオレンジがやって来た。運転手にクエイリバービレッジと告げると、うなずいたので乗り込んだ。いったん乗り込むと運転席との間に仕切りがあるので、客との会話は出来ない。

 降りたいときには、屋根の鉄パイプを何かでたたいて、運転手に合図をする仕組みである。


 

| | コメント (0)

帰りは怖い バンコクの渋滞

 樹木の恵で涼しい公園を後にすると、また灼熱の道路を1㎞あまりも歩かねばならない。中心街の象徴でもある仏塔(チェディー)までたどり着き、日陰の芝生で考えた。 

 チェディーの近くにある国鉄の列車で帰る手もあるぞ、駅まで行ってみると次の発車は15;55分これに乗ると1時間20分でトンブリー駅に到着するが、ファランポーン駅には行かない。Photo_3

 悩んではみたが、冷房のない灼熱の車内、堅い椅子などを思うと、足は冷房バスがいと主張するので、復路もバスにした。

 バスは冷房で快適、発車時には半数くらいの空席があったが、次第に乗客が増えていく。 どこを走るバスでも、ターミナルを出てしばらくは徐行して乗客の増加につとめる。

 間もなく一人の僧侶が乗ってきた。大体お坊さんの座る場所は前の方と、暗黙の慣わしがあるらしい。 と、その時私の横に座っていたおじさんがサッと立ち上がって僧侶に席を譲った。と言うことは俺の横がお坊さん。捕って食われることはあるまいが、異質な人種のような気がして緊張する。

 更にしばらくして若い母親が二人の娘を連れて乗ってきた。見た感じ6才くらいと3才くらいだな。今度はオバサンが立ち上がって席を空けた。そのオバサンは後ろの席に割り込んで三人掛けに甘んじた。

 母親の膝の上には、お姉ちゃん娘がだっこされてすぐに眠り初め、妹娘は前に座っていた見知らぬお姉さんに引き取られて、夢の中に入っていった。このように坐席を譲ろういう行為を、タイ人はごく自然に実行すことが出来る。

 更に妹娘をだっこした、見知らぬお姉さんの下車が近づいてくると、その動きを見た車掌は、さも当然のごとく静かに妹娘を受け取ってだっこした。タイ人は、根が子ども好きでお節介な所もあるだろうが、とても優しい民族なんだ。

 お姉さんの下車をする気配に、目を覚ました妹娘は眠そうな目をこすりながら、降りていく見知らぬお姉さんに、紅葉のような小さな手で感謝のワイ(合掌)をした。3才くらいな子どもでっせ。母親のしつけをしっかり見せて頂いた。この小さな子どもが車内の気持ちを本当に和ませてくれた。
  
 と、云いながら日本のタイスキおじさんは、知らぬ間に眠ってしまったらしい。気がつけば隣の袈裟を纏ったお坊さんの肩に、頭を預けて居眠りをしていた。

 このバスが、サイターイ(南バスターミナル)に到着して都バスに乗ったのだが、渋滞で遅々として進まない。

 ホテルまでの所要時間に2時間を要した。往路は20分だったのになあ。げに、バンコクのラッシュアワーは恐ろしい。

 夕方近くになると南バスターミナル付近の渋滞は、慢性化していて絶望的である。  公共交通機関を利用して、などと甘く考えるとひどい目に遭うことになる。最初から諦めてタクシーで逃げ出す方がよさそうだ。

 そのタクシーは走りやすい抜け道や、遠回りをして先を急ぐから料金だけは高くなるが、それでもかなり時間はかかるようである。

 やはり汽車であったか、後日調べてみると、ナコーンパトムを15:19に出る汽車はトンブリ に16:30 の到着。 15:55 に発車する汽車は17:10トンブリ着である。トンブリ駅からチャオプラヤ川までは少し歩かねばならぬが、川を下るエキスプレスボートでBTSに乗り継ぐのが一番賢明かも知れない。

 

| | コメント (0)

近郊の町 ナコンパトム

 暇が出来ると知らないところへ行くのが面白い。タイの交通機関は飛行機をのぞけば、道路網が発達しているのでバスが一番便利である。料金も日本とは比べようもないほど低料金だ。

 大体1時間走ると、その料金は30バーツ(100円)くらいと考えてよい。バンコクの大きなバスターミナルへ行って、料金表を見て オッここは50バーツか。  じゃあ片道1時間30分として日帰り圏内だ、行ってみるか。

 こうして私は近郊の知らない町を、探訪してみる事がよくある。 ナコーンパトムの町もバスターミナルへ行ってから料金表が32バーツであることを確認して、日帰り圏内の町としてスタートした。

 ナコーンパトム行きのエアコンバスは、南バスターミナルから20分毎に出発していて田舎道を走り続けて約1時間で到着した。 このナコーンパトムと言うのは、「最初の都」との意のようである。

Photo  ナコーンパトムには、インドシナ半島では最大(高さ120メートル)の仏塔が建てられている。

 これがモン族の都で有名な「プラパトムチェディー」 である。 なるほどこの塔は下から見上げると首が痛くなるほどであった。
 
 ちょうどこの日は町の儀式的な行事があるらしく、参拝者はもちろん社会見学の生徒、軍隊や警察官、消防士、病院関係者で埋め尽くされていた。

 生徒達の集まりを眺めていたら、数人の生徒がコンイープンと (日本人) 云いながら、はにかむ一人の女生徒を連れてきた。この生徒は4月の夏休みに大阪へ行って来たそうで、みんなにはやされながら、二人で写真を撮ることになった。
 
  写真を撮って照れるのは私の方で、彼女は堂々としたものである。 タイでは高校でもミス○○高校との美人コンテストが行われるお国柄なので、中学生でもみんなの中に立つことなど何のてらいもなく、笑顔を見せていた。

 チェディーを後にして、露店を冷やかしながら西へ歩くが、今日もことのほか暑い。バナナの揚げたてを ほおばりながら歩くので、一段と暑さがこたえる。そしてかなり歩いて迷子、いや迷爺となる。

 バイクに子どもを乗せたおじさんを呼び止めて、サナームチャン宮殿へはどちらへ行けばいいですか。と方角だけ聞いて、炎天下を歩き続けるのだが、迷子状態はまだ続き、通りがかりの警察官に再度尋ねて、念願のサナームチャン宮殿に到着することが出来た。

Photo_2  サナームチャン宮殿は広い公園の中にあって、、小さな本当に可愛い童話に出てくるような宮殿で、ラーマ6世の離宮である。これは十分来た値打ちがあった。
公園の木々の間にとけ込むような、薄いピンク系統の宮殿なので、遠足に来ていた子ども達も大喜びしていた。

 私は産まれて初めて、ドリアンなるものを買って食べてみようかと、かなりの量を買い求め口にしてみた。 これが果物の王様とも云われるドリアンの味か。匂いのきついどろっとした触感は、とてもじゃあ無いが食べられない。

 こんな変な果物が出てくる6月を、待ちわびている人が沢山いることが不思議でしかたがない。さて、このドリアンはゴミ箱が見あたらないため後始末に困ったが、公園の清掃をしていたオバサン2人に、処分をお願いした。 
 
 公園内のトイレに入ってみた。やはり全国共通の2バーツ(約6円)で、ここでも番人が必ず見張っている。この2バーツを守っている番人が5才くらいの女の子で、目がくるっとして大きく、何とも云えない可愛さだった。

  話しかけても黙って微笑むだけ、何枚か写真に納めてお礼に日本のキャンデーを一袋渡すと、小さな手でワイ(合掌)をしてくれた。帰国して写真ができあがって見ると、やはり愛くるしい子どもだった。

 たった一人で何時間も、寂しい公園のトイレで、いつ来るか分からない客を、待つことが出来るって感心な番人ではある。

 

| | コメント (0)

イサーンの名物料理

 イサーン (東北タイ) の名物料理と言えば、カオニャオ、ガイヤーン、ソムタムの三点セットだろう。 カオニャオは料理と言っても餅米を蒸したご飯(日本のおこわ)で、ガイヤーンは鶏を1羽丸焼きにして大きく切ったもの、ソムタムはサラダである。

 ソムタムの中味は、未熟で硬いパパイヤの千切りを主体に、ニンニク、唐辛子、干し海老、トマト、ピーナツ、レモン、ナンプラーなどを小さな石臼に入れて石臼用の棒でトントンと叩き潰して、和えたサラダである。 

 このサラダをバンコクあたりで所望すると、食べやすくてまろやかで、とても美味しい。そしてソムタムを贔屓の一品にするのである。 ところが本場のイサーンへ行ってソムタムを注文すると、その強烈な味と匂いに圧倒されて、以後、病みつきになるか敬遠するかの岐路に立たたされるのである。 

 どうしてこのように味が変わるのかと云えば、小さなキーヌーと発酵させた小魚や、生か塩漬けの沢蟹を加えて、一緒に臼に入れてつぶして味を作っているからである。日本で例えるなら、発酵した小魚に塩辛、強烈な匂いのクサヤを加えて、多様な味と匂いをつけたサラダに変身させた代物になっている。

 バンコクなどのソムタムは実に上品な味だが、本場の物は「ソムタムラオ」または「ソムタムイサーン」と呼んで、人々の大好物となっている。またこの中にはキーヌー(ネズミの糞)とよばれる、緑色の唐辛子が小さく刻まれてさりげなく隠れているので気をつけたい。

 うっかりキーヌーの一切れを口に入れると、口の中は火炎地獄となり七転八倒、この世にこんな辛い唐辛子があったのかと思い知ることになる。こんな事までして料理を生み出したイサーンの人は偉い。

 なお 被害を受けたときのために、付け合わせとして、キャベツや生インゲンなどが添えてあるので、消火時には利用されるとよい。

 私は、小さな篭に入ったカオニャオを指でつまんで、ソムタムの汁を付けて口へ放り込んで食べるのが、無上の楽しみである。この味に魅せられてしまうと、プーパットポンカリーなど甘いオヤツとしか思えない。

そしてあまり好きではない鶏も、こうゆう食事の時には、いくらでも食べられるのである。

| | コメント (1)

タイの食事は美味しいが 好みがあるようで

 身内の話で恐縮ですが、私の末弟は日タイ教育交流協会を立ち上げて、タイ語教室、タイ料理教室などを主宰している。またタイへの修学旅行にも携わり、その他に年10回ほどはタイへの研修旅行にも出かけている。

 タイへの渡航も数えきれないようだが、彼はタイ料理がほとんど食べられない。 (全く食べる気がない) タイ人の摂取する動物タンパクは、鶏と豚が主体になっている。その鶏が大嫌いだから、もうタイ料理は食べられない。それでも刺身を中心とした日本食を、探し求めてタイの街を彷徨っているようだ。

 こんな人もいれば、タイ料理が大好きという人もたくさんいて、いろいろな好みを持って食生活を楽しんでいる。

 タイ料理大好きの日本人が、これは絶品の味と褒め称える料理にプーパットポンカリーがある。

バンコクには「ソンブーン」というチェーン店が5軒ほどあるようだが、このシーフード店の名物が、渡り蟹のカレー炒め (プーパットポンカリー) だ。

 自称タイの食通と云われる人達が、渡り蟹が、ココナッツミルクのカレーと、泡立てた卵とマッチしてジューシー、この店のプーパットポンカリーは絶品とおっしゃる。

 私もそれではと食べてみた。大きな皿に盛られご飯の上に、卵の柔らかなカレーがたっぷりかけられて乗っていた。カレーの中には割られた渡り蟹もたくさん入っている。 その味は? どうもココナッツミルクのせいか甘いのだ。 

 その後トンクルアンやマンゴーシャワーと店を変えて、プーパットポンカリーを食べてみたが、甘さが気になって絶品の味とは云えなかった。

 同じ甘い味のご飯(デザート?) であれば、カオニャオマムアンのほうが、まだ私には合うように思う。 この料理は餅米を蒸したご飯に、ココナッツミルクをかけて、その上によく熟して皮を剥いたマンゴーを乗せた料理だ。これは甘いには甘いがかなり上品な味のご飯である。

 しかし私には柔らかで甘ったるい食事は合わない。たとえ変な匂いがしようが、スパイスがきつすぎようが、シャンとした味のタイ料理が好みである。

 

| | コメント (0)

タイの食事が口に合わない人は

  郷にいれば郷に従え と云いますが、タイに行けばタイ料理を食べてみたいと思う。それでも味付け海苔や梅干しなどをご持参で、敵地へ乗り込まれるお方もたくさんあるようだ。

 旅をして異国の珍味を存分に賞味しようと頭では思っていても、何十年も使い慣れた舌が、云うことを聞いてくれないらしい。

 そんな人たちが年間100万人近くも、タイを訪れるわけだから、バンコクには日本人に合わせたレストランがいたるところに存在する。
 特に日本人向けの店が沢山集まっているのは、スクムミット通り近辺と、シーロム通りとスリウォン通りの間のタニヤ近辺である。

 BTS サラデーン駅を降りてすぐの、右側がタニヤ通りで、この界隈には日本語が溢れかえっている。 
 タニヤプラザ3階には、回転寿司でお馴染みの 「子象寿司」 がある。 しかし、よく見てください。
日本のものと一字違いますね。 そうです日本では小僧寿司なんです。

 「子象寿司」 では、毎日11:30 から14:00までがランチタイムで700円ほどと少し高めですが食べ放題となります。

 回転するレーンには、日本と同じような、サーモン、まぐろ、ケンサキイカ、海老などの寿司だけではなく、茄子の味噌煮込みや鯖の塩焼き、ハンバーグからプリンなども仲良く回っている。

 私が入った時間は1時半頃だったが、入り口近くしか座席がなかった。回転するレーンの一番後尾だったので。残念ながら美味しそうな寿司は途中で消え去っていった。本気で食べる気であれば、12時前に行って、満を持して挑戦すべきであろう。日本人の多い所なので、非常に繁盛している。

 タニヤプラザの一筋前の通りには、牛丼の牛野屋がある。吉野屋ではありません。
店の構えや配色、看板はすべて日本の吉野屋とそっくりなんですが、一字違うんですなあ。 この店の牛丼の味はバカに出来ないと、立ち寄る日本人の若手には評判がよろしいそうだ。

 ツアーでなければ、何でも食べられるバンコクなので、無理に梅干しやラッキョウなどを持ち込まなくても日本食はいつでも食べられる。  伊勢丹やプロンポンのSoi 33-1にあるフジスーパー (日本の食料品スーパー)へ行けば梅干しやラッキョウ、納豆だって、いくらでも売っていますからご心配には及ばない。

| | コメント (0)

年がいもなくステーキを

 タイへ行ったことがある人や、バンコクに興味を持っている人なら、パッポンと言えば大概の人が一度は聞かれた事があるだろう。このタイらしくない変な名前のパッポン通りは、50年ほど前にパッポンと云う人が土地を購入して、歓楽街を作り上げたので、名付けられたのだそうだ。

 このパッポン通りに、日本人が経営する得体の知れない洋食屋があって、根強い人気を誇っているらしい。この通りはBTSのサラデーンで電車を降りて、パッポン通りをスリウォン通りへ向かって歩くと、ちょうど中間くらいの左にその店はある。

 パッポン通り夜はナイトバザールなので、 夕方以降は沢山の人が珍しいものはないか、掘り出し物はないか、鵜の目鷹の目で大混雑しているので、店を見つけるのが一苦労である。 

 こんな所に洋食屋があるのだろうか、不安になってくるが、「ミズキッチン」と書かれているから、見落とさないよう注意しなければならない。
 中が見えないので入るには少々とまどいもあるが、入ってしまえばぼったくり店ではないので、捕って食われる事はない。

 ただ、薄暗い店内は清潔感は期待できそうな雰囲気ではない。ゴキ君がはい回っていても不思議ではない。さっそく日本語のメニューを持ってウエイトレスがやってくるが、タイ女性の優しい微笑みなど、どこかえ置き忘れたような無愛想な女だ。

 印象はよくないが、店のオーナーは日本人で、何十年もこのレストランの営業を続けているそうな。したがってお客の半分以上が日本人だと言うのだがなぜだろう。

 どうしてもなじめない。大正時代の古色蒼然とした洋食屋をバンコクに移動して、改築もせず、そのまま営業ているような感じの店だ。
 日本のガイドブックには、毎年紹介される有名店とのこと、店内の雰囲気もウエイトレスも感じはよくないのに、それでも多くの人を引きつけるのは味だろうか。

 私はこのミズキッチンに入って、一番の売りである「サリカステーキ」なる物を注文してみた。10分ほど待つと、まだ 鉄板の上でジュージューと、音と湯気を上げた馬鹿でかいステーキが運ばれてきた。 

 何とも大きい。 熱くて厚い,もてあますほどのステーキを食べてみると柔らかくて味はとても美味しいのだ。セットメニューなので、パンとサラダが付いてきて、食べきれないほどであった。物は試しと入ってみたが、このボリュウムは、かなりの健啖家でないと食べきれるものではない。とても胃や腸が退化しつつある高齢者には向かないと見た。

 豪快と言えばこの他に「鯖ステーキ」というのがある。性懲りもなく後日食べてみると、サリカステーキと同じように、熱々の鉄板に乗せられてきたのは、一匹の大きなサバが丸ごとステーキに化けて出てきた。

 そのほかに、ライスカレー、ハヤシライス、ビーフシチューなど、古い日本の味がそっくり再現されて出てくるそうだ。 どうやら人気店の秘密はこの辺にあるように思われるが、変った雰囲気をもつ店であった。 

| | コメント (0)

一度は行きたいパッポン通り

 BTSのサラデーン駅を降りると、夜は別世界である。バンコク有数の歓楽街でもあるし、お土産を求める夜店も氾濫していて、時間を忘れるほどである。
 
 さて近くにある、パッポン通りには世界中から集まった観光客が、あたりが暗くなると、どこからともなく集まってきて、歩くのもままならぬ人で埋め尽くされ、毎夜遅くまでで賑わう。
 ここには、時計、工芸品、ブランドの袋物、仏像、衣類などと、おみやげ物的な夜店が所狭しと並んでいる。

 中には 「ローレックスの偽物安いよ」 などと、とんでもない事を日本語で叫んでいる店もある。と、思えば「社長マッサージはどうだ」といけない方のマッサージを薦めていたりもする。こんな店が集まっているから、どこまで値切れるかがまた面白い。

 私なんか、ローレックスの時計1000バーツに釣られて、立ち止まると「このローレックスを買うと安いよ」。と浴びせられる。そこでこわごわ覗いて見るとなんと動いているではないか。 よく見ると時計本体もベルトも、高級品仕様で見ただけでは偽物とはわからない。それが動くとなると、玩具としてはおもしろい。

 これは1000バーツ(3000円)から、どれだけ下げてくれる? しばらく考えて700バーツだ。  高い要らないと言って去ろうとすると、社長待て待てと呼び止めて、それではいくらなら買うか?と電卓を渡すので、私は電卓に半値の350を押して兄ちゃんに渡した。

 すると兄ちゃんはニヤリと笑って、紳士用ローレックスの時計を包装してしまった。こんなことなら250バーツほどに値切っていたらよかった。 後の祭りとはこのことである。

 このローレックスの時計は、京都に帰って見ていると、1日に30分ほど進んで頑張っていたが、2週間で力尽きて停まってしまった。 まあ部屋の飾りにはなるだろう。

 こんな夜店の両側では大音響を発している店がかなりあって、通りから店の中が丸見えになっていた。中央の踊り台では若い踊り子が、ほとんど裸で10人ほど踊っている。

  通りからは丸見えだが、その前で口を開けて年若い日本の健男児が、5人ほどコーラを飲みながら固唾をのんで見つめていた。
 その後はご想像の通り、気に入った女性をホテルにお持ち帰りされるらしい。 このシステムはタイ国公認なので、悪いことではないが……

 動き回ったので空腹を覚えた。今夜は日頃食べない日本食をべよう。 一人なのでスリウォン通りの、Soi タンタワンを入ったすぐ左の小料理屋(名前は忘れた)に入った。この店はタイ人だけで営業している店だが、いつ来ても鯖煮定食が美味い。味の当たりはずれがないので時々利用している。

| | コメント (0)

勉強するとすれば

 ご機嫌いかがですか? お逢いできて嬉しいです。 などの会話は出来るにこしたことはないが、出来なくても特に困ることではない。ツアーでなく数人の旅では、食べ物の名前は知っていた方がよいが、同行者に少し分かる人がいれば、旅はより円滑にいく。

 一人旅をするようになった最初の頃、数字が理解できないと致命的だと思うことが、毎日おこって途方にくれたものである。ホテルに宿泊するにも、乗り物に乗るにも、買い物をしても、必ず数字のお化けがついて回る。

 1~10までの数字を覚えても、更にその上があり、指をおってみても数え切れない。バンコクでの買い物なら、敵も心得ていて、電卓を持ってきてくれるので何とかなるが、田舎の食堂のオバチャン達ではそうもいかない。

 何度も思い知らされた私は、数字を何とか覚えようと心がけた。覚えるより忘れる事の方が早いのだが、これだけはと打ち込んでみた。

 結果は認知症の兆しが現れたのか、やはりすぐに忘れてしまう。そして机上の勉強で覚えた数字は、現地ではなかなか対応できない事を思い知らされて、悄然と帰国することが続いた。

 ところが田舎の寒村で泊まったり、屋台や食堂で食事をするとき、苦しみながら思い出して呟いてみると通用することもあるではないか。 おっ出来た。 こんな時に覚えた言葉や数字は、まず忘れることはない。かくして数字のお化けは私から次第に遠ざかっていった。

 その数字もレパートリーが広がって、10万以下であれば聞き取ることが出来、相手にも伝えることが出来るようになった。 それ以上の数字は、私には関係のない世界なので、覚える気はさらさらない。しかしやはり数字は生活必需品で、この必需品があってこそ旅が成立することがよくわかった。

 食事の注文に悩み、数字に悩んだ初期の頃が今では懐かしい思いでとなったが、こんな悩みなど意に介さず、悠々と行動される方もいらっしゃる。ある時一緒のグループの女性が、タイスキさん2時間ほど自分で動いてもいい? と云われて一人で大丈夫ですか。すると口がありますから大丈夫でしょう。と答えて外出された。

 タイの国に来たのは初めて、タイ語はどう贔屓目に見ても、全く出来ない女性である。言葉なんて分からなくても、同じ地球の上だ、と行動できる特殊な才能ってあるものだ。

 多少の不安を覚えて待つこと1時間30分、彼女は近くの美容院で見違えるように変身してホテルに帰ってきたのである。彼女には日本語を、世界の共通語に昇格させる能力が備わっていたのだ。

 グループで旅して、みんなでお土産を買うために、今はなきナライパンに出かけた。この中の女性の買い物を見て驚かされた。商品の値段を電卓で確かめて500バーツの言い値を確認すると、すぐに100バーツと電卓を打ち直して店員に渡した。しばらく日本語でやりとりして店員は250バーツまで下げた。彼女は2つ買うから300バーツにしなさいよ。

 見ていた私も店員も、どうなっているのかよく分からない状態で、店員はOKと云ってしまった。後でよく考えると500バーツの品物を、150バーツまで値切ってしまったことになるのだ。これがタイ語でなく日本語で出来る女性は、さすが日頃鍛えぬかれた日本の主婦である。

 タイへ旅するために、勉強してみようと思われたら、まず数字を理解することと、どうしても自分が食べたい料理の名前を、覚えることをお薦めしたい。

 

| | コメント (0)

初めての海外旅行

 もう28年くらい前になるだろうか。久美浜町の実家にはまだ両親が健在で、正月には兄弟がみんな帰省して、煮染めにお酒の三が日を送るのが慣例になっていた。

 その頃は末弟が学生時代からアジアに興味を持って、アフガニスタンや近隣諸国を巡って、そのあと集中的にタイへ行き始めた頃だった。彼がタイは素晴らしい国だぞ、と話すたびにタイに偏見を持っていた私は、ようもタイなんかに行くなあ、とひやかしていたものである。

 酒の上での話は酔いにまかせて、一度兄弟で行ってみるかと簡単にまとまってしまった。行きがかり上とはいえ、お酒とは恐ろしい物である。こんな軽はずみなきっかけが、その後何十回と続くタイへの旅に、結びつくことになろうとは思いもよらなかった。

 私は海外旅行など行ったことがなかったので、パスポートなどは見たこともなく、何を用意すればいいのか。タイまでの航空券はいくらか。小遣いはいかほどか。と出発までパニック状態だったが、それでも出発してしまった。

 弟2人と妹、希望親族ご一行様は、バンコクドムアン空港へ深夜に到着して、宿泊ホテルのあるシーロム通りへとタクシーで移動した。緊張のあまり機内食もほとんど残し、ホテルに着いてやっと空腹であることに気がついた。

 さっそく空腹の数人は、シーロム通りの屋台で、得体の知れない麺を食べたのだが、出発前に悪友がバンコクの麺には蛇が入っているらしい、などと言ったのを真に受けて、麺の上の食材が気なって仕方がなかった。

 こんな思いで始まったタイの旅も、ミイラ取りがミイラになって、今ではタイ料理が大好物である。

 しかし、その後の私は一人で旅をすることが多なって、そのため困ることも多くなってきた。特に困ったのは何を隠そう食事だった。 ボロボロのバスで国境近くの村に到着しても、夕食がたべられないのだ。食べ物の名前が伝えられないのである。

 バンコクのホテルで教えてくれた焼きめしが、「カオパット」と呼ぶこと、くらいの知識しか持たず、そのうえ言葉も分からないのに、注文なんか出来るはずもなく、昼食は屋台の麺、夕食も麺、という惨めな旅をした事もある。

 「カオパット」 と覚え立ての名前で注文しても、食堂のオバサンは怪訝な顔をするばかり、老人だとばかりに無視をするのか。と思っても聞いてくれないのだから困ってしまう。日本なら 焼きめし! と云えば発音はどうあれ、しばらくすれば焼きめしが登場する。

 タイの焼きめしは非常に種類が多く、何を素材とした焼きめしかを告げないと、オバサンは作れない。それで「カオパット」の次の言葉を待っているのだ。だから 次の言葉がクンであれば、海老がたくさん入った焼きめしが出来てくるし、ムーといえば豚肉入りの焼きめしが作られてくる。

 タイの焼きめしは、クン(海老) ガイ(鶏肉) ムー(豚肉) プー(蟹) ネーム(発酵ソーセージ)が一般的である。 今夜は蟹入りにしようか、と思えば 「カオパットプー」、と言えばオバサンの笑顔と共に蟹身のたくさん入った焼きめしが現れるのだ。

 タイの長粒米は粘りけがなく、さらに焚くのではなく蒸してご飯にするから、焼きめしには最高にマッチする。いろいろな焼きめしを食べてみるが本当に美味い。 このような苦難を乗り越えて、現在はやっと多少の料理は注文出来るようになった。

| | コメント (0)

タイの食べ物は面白い

 タイにはどんなに田舎に行っても屋台があって、その中でも一番多いのがクエティオと呼ばれる麺の屋台である。ほとんどの麺は米麺だが、時にはバーミーといって、黄色い色の中華麺も見られて嬉しくなる。

 乾燥した米麺をさっと湯通しして、汁の入った丼の器にいれて、その上に魚の小さなツミレや野菜、焼き豚スライス、鶏肉、正体の知れない物を、いくつか乗せて、出来上がる。味はごく薄味のまま持ってくる。

 古ぼけて薄汚れた台の上にはどの屋台でも全く同じの、唐辛子の粉末、酢漬け唐辛子、砂糖、小さく刻んだパクチーなど4種ほどの調味料がセットになって置かれ、その横にナンプラー(小魚を発酵させて作った魚醤)の大瓶がデンと置かれている。

 運ばれてきた麺に自分で調味料を好きなように加えて、自分好みの味に整えて食べるのだ。そのため麺のだしは非常に薄くしてある。   タイ人は唐辛子粉と砂糖をどさっと入れることが多いが、私などは唐辛子粉、ナンプラーとパクチーは適量にして、酸っぱいのが好きなので、酢漬け唐辛子をスプーンに3~4サジと多めに入れて食べている。

 日本では店が作った蕎麦なんかに、客が調味料をガバガバと入れて食べでもしたら、気を悪くするに違いない。でも自分の食べたい味にして食べるのは、屋台側も当たり前のことと承知しているし、そのためにたくさんの調味料が各テーブルに置かれているのだから遠慮をする必要はない。

 こうして美味しい麺を食べるのだが、時々汁の色が褐色に、濁っていることがある。この場合は豚の生き血を入れているので、慣れない人は敬遠する場合もあるようだ。また屋台の食器や箸は決して衛生的とは云えないので、気になる人は自分の箸を持参していると便利だろう。

 ある時バンコクの食堂で珍しい物にであった。それは日本では天然記念物に指定されている、変な形をしているカブトガニである。カブトガニをタイの人たちは食べているのかと、驚いたが、そこは何事も経験と注文してみた。

 グロテスクな姿で泳ぐエイのような形をして、硬い殻に覆われたカブトガニの尻尾を握って店員は調理場に消えていった。

 あんな物のどこを食べるのだろう。中に美味しい身でも詰まっているのだろうか。何でも初めて食べる時は不安と期待で、出てくるまで心配なことである。 そして大皿に乗せられたカブトガニは、元の形のまま茹でられていた。

 ナイフとフォークで怖々叩いてみると、カンカン音がして切ったり割ったり出来そうもない。 店員にどうして食べるのかを聞くと、店員は尻尾をつかんでひっくり返してくれた。そしてお腹には黄色の卵がびっしりついていて、この卵だけを食べるのだという。 意を決して食べてみると、美味しくも何ともない。これが天然記念物の味か。

何事も経験だと云うが、グロテスクな天然記念物は、食べるところはろくになく、塩ゆでされた卵もまずく、授業料としては高くついた。

 

 

  

| | コメント (2)

見た目だけで判断は出来ないが

 人間は生まれてから死ぬまで、何かを食べていないと生きていけないようだ。飢餓で苦しみ餓死寸前の国もあるが、普通は毎日何かを食べて生活をしている。それでも国によって食べるものに、差があって同じではない。

 例えば動く物なら何でも食べてしまう国があったり、牛だけは食べない国、野菜しか食べない国などもあるらしい。

 そして自分の国の食物が一番正当で、他の国もそうでなければいけないなどと、狂ったような国まで現れている。

 鯨は賢い動物だから食べてはいけない。などを理由にして日本の捕鯨を批判し、妨害する思い上がりには困ったものだ。そう言うヤツの国が、牛をはじめ羊も豚もカンガルーさえも屠殺して食べているのは何でや、と思うのは私だけだろうか。

  日本人は生の魚を食べるのが大好きな民族である。これは世界でも数少ない食文化なので、刺身を食べる風習のない国の人々は、眉をひそめ野蛮な未開の国とまで思うらしい。それでも慣れるにしたがって日本の寿司などを珍重し、魚の生食に順応していく。

 日本人がこよなく愛好しているみそ汁でも、飲めない外国人はたくさんいる。これは見た目だけで、いらぬ連想をして拒否反応を起こしているだけなのだ。

 タイの食事が食べられず、この国はなんと野蛮な食べ方をしているのだ。とか何でこんな物を食べるのか。などと云う人もあるが、その国の食文化を批判をするのではなく、郷にいれば郷に従えのたとえのように、まず食べてみるのが本筋であろうと私は思っている。

 私の知っているご婦人が2日間ホームステーをして、タイスキさんホームステー先の、タイの食事が口に合わず全く食べられませんでした。それでどうしたの。と聞くと日本から持参したオカキだけで過ごしたのですよ。可哀想でしょ。

 可哀想なのはホームステー先の、食事の用意をしてくれたお母さんでしょ。何を作っても食べてくれないお客など、泣きたい気持ちだったに違いない。人の気持ちが分からない人は、ホームステーなどする資格はないと思うのだが。

 ある時イサーンの、コンケーンで夕食を食べようと小さなレストランに入った。私が席につくと、外人が来たとばかりに、前に座っていた数人の若者のグループが私を振り返った。男性も妙齢の娘も人食い人種だ! と思った。 みんな口の周りが真っ赤な血で染まっていたのである。

 これは赤貝の仲間のホイクレーンで、さっと湯がいて辛いタレつけて食べると、ビールのおつまみなどには、とても合うらしい。開いた貝の中から出る血液には、貝には珍しくヘモグロビンが含まれているので、真っ赤な汁が口の周りにつくのである。

 私などはもう少し茹でて食べれば、血液の色が褐色に固定されて、食べやすかろうと思うのだが、この貝は、さっと湯通しをする半生状態が、一番美味しいのだそうだ。このホイクレーンは牡蠣と共にタイの貝の中では一番よく当たるから慣れない人は食べない方がいい。

| | コメント (0)

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »