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2010年11月

旅に支障の多くあった年だった

 今年の2月には、タイ西部のメーソットへ行こうと計画をしていた。一昨年まで運行していた飛行機がなくなり、それではバスに8時間乗れば行けるだろうと、その気になって調べていくうちに、メーソットからタークにかけてマラリヤがかなり蔓延していることが分かり断念した。

 仕方がないのでメーソットは、顕著なマラリヤの兆候が収まってから行くことにして、北タイとバンコクの近辺の旅に切り替えた。そうして時期を待つうちに、赤シャツや青シャツがアメーバーのごとく街に氾濫して、非常事態宣言が出てしまった。

 バンコクではまだ非常事態宣言が出たままだが、やっと街の動きも平静になった。待ちに待って、もうよかろう。と熊が冬眠から目覚めたかのように、HISに行って航空券を購入してしまった。

 今回も一人旅、密かに策を練っていた。バンコクに着いたらすぐに北バスターミナルへ行ってメーソットまでのVIPバスのチケットを手に入れてしまおう。タークで1泊してメーソットで2泊くらいか。うまくいけばそのうちの1日くらいはビルマに入れるかも知れない。

 ところがビルマ (ミャンマー) はこの時期総選挙だ、メーソットとビルマのミャワディー間のイミグレーションは閉鎖されている。

 それでも勇敢なというか、無謀というか元気のいい人もいて、深夜小舟でモエイ川を渡り国内にビザ無しで入って、完全秘密下で実施されている総選挙投票所の様子を撮影した。当然拘束されて取り調べを受けたが、幸いにも昨日の夕刻メーソットで解放された。

 国外退去処分でタイに追放されたのは、東京のAPF通信社のYさんだが、日本人に対する規制の目がぐんと厳しくなることだろう。 今後の推移を見なければならないが、どうも今回もメーソットは難しそうである。

 メーソットにはこの前も、夜間に300人ほどの人がビルマから逃げてきていて、タイとの国境付近では逃げてきたビルマ人は15万人に達していると云われている。

 それにしても、困って逃げてきた人を、暖かくそのまま迎え続けているタイは、仏教国だけあって心優しい国民である。

 いつもブログに目を通していただき有り難うございます。 自分の目で見たいことも出来ましたので、投稿はしばらく休みます。

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小さな飛行機に乗ってスコータイヘ

 彼女との再会で積年の悩みの一つが解消されて、平静な気持ちに帰る間もなく飛行機への誘導が始まった。チェンマイは曲がりなりにも国際空港である。しかしこの日の機影は大きいのや小さいのや併せて6機であった。

 私が今日乗る飛行機は? ありました。  搭乗は徒歩で飛行機まで行くのだ。これって普通はバスで移動するのだったと思うのだが、空港の中の一番端に駐機している所までかなりの距離だった。

 これでもインターナショナルエアポートか、そして飛行機にたどり着いて驚いた。小さな飛行機にプロペラが1つしかない。 プロペラが故障すればそれまでか。

 タラップを登って機内に入って更に驚ろいた。座席は全部で12席しかないぞ。私の席はどこ、とオバサンスチュワーデスに聞いて案内されたのは、幸運にも一番前の座席だった。 

 操縦席のドアが故意に開きっぱなしになっていて、機長は私の2メートル前で操縦している。おまけに機長は後ろを振り返り、ピクチャーオーケーなんて云ってくれるではないか。操縦中の写真が写せるなんて、なんと豪勢なのだろう。

 こんな低空を飛行するのは始めての経験だったし、眼下に広がる地図の縮尺も大きくなって、何もかも見えてしまうようでとても楽しめた。

 スチュワーデスは狭い通路を苦戦しながらも、ケーキとコーヒーを運んでくれる。もう少し広ければ自由に行き来できるのだろうが。機内は観光地から遺跡に向かうコースなので、タイ人は見当たらず旅行客ばかりだ。

 こんなに楽しい飛行機なのに40分のフライトで、スコータイ空港に着陸してしまった。
この飛行場はサムイ空港と同じく、バンコクエアウエイズの専用空港なので、他の飛行機の影はまったく見当たらず、野原のなかの空港は寂しい限りだった。

 バンコクエアウエイズ航空のリムジンバス(5~6人乗り)に乗って、スコータイ遺跡まで行った。
スコータイと告げれば、現在の町(新スコータイ)まで、遺跡まで行きたいときは、ムアンカオ(古い町)といえば遺跡まで送ってくれる。

 今回は城壁だけを丹念に見学した。城壁から出て自転車を返しに行くとオバサンは、これからバンコクか? と言うので「ピサヌロークまでだよ」と答えると、座ってバスを待つように云い、小学生の子供を道ばたの木の椅子に座らせた。

 その男の子は、タークからのバスが坂道を下ってくると、停車の合図をする役を仰せつかっているのだ。 止めてくれたバスに乗って、居眠りしていればピサヌロークへ着く予定だ。しかしまあ、小学生とすれば客からのチップが入るのでいいアルバイトではある。

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思いがけぬ出会い

 この記事は過去に一度投稿したものである。バンコクで友人と話しているとき、チェンマイからスコータイまで小さな飛行機に乗って面白かったと云う話を聞いた。

 それなら私も一度は乗ってみたいものだと思っていたが、数ヶ月後にチェンマイに行くことがあって、これはチャンスとばかりに、飛行機の手配をした。そして翌日空港へ向かうのだが、ここから先を書くと私の前職が分かってしまうので躊躇したのだが、犯罪の前歴ではないのであえて書くことにした。

 私は公立中学校で教科の指導するかたわら、女子運動部の顧問兼監督を28年間やっていた。その間、何百人の部員と関わってきたが、運動技能に秀でた生徒と、若干運動には不向きな生徒がいることは事実であったが、まあこれは仕方がない。

 しかし能力的に優れていても、家庭の経済的な理由等によって、力が発揮できない部員だっている。この年もそんな生徒が在籍していた。

 彼女は2年生から3年生まで、用具やユニフォームも満足に整えられぬまま、先輩の残したものを使って、レギュラーの座を守り続けた非常に明るい生徒であった。この年は京都府で優勝はしたものの、近畿大会では力及ばず涙をのんだ年であった。

 しかし彼女にとっては、高校進学を断念しただけに、中学校のクラブ活動が忘れ得ぬ思い出となったはずである。 ところが卒業して間もなく、突然家族共々消息を絶ってしまい、いつまでも気になっていた生徒だった。

 さて、翌朝スコータイを目指して、チェンマイ空港へ行き航空券を搭乗券と引き換えて、搭乗案内を待っていると、今バンコクから到着した飛行機からたくさんの乗客が吐き出されてきた。

 その中には日本人のツアー客が何組かあって、初めてのチェンマイに、興奮気味な様子を見せながら賑やかに出てきた。

 そのツアー客の最後に出てきた女性、どこかで見たよう顔があった。その女性は「先生ですか!」と駆け寄ると涙が溢れ出て、しばらくは言葉が出なかった。 行方不明になっていた中学生に、日本を遠く離れたチェンマイで逢うことが出来た。

 私も万感胸に迫って、しばらく会話すらできない。彼女が中学校を卒業して38年ぶり、奇跡の再会であった。 

 今は滋賀県で家庭を持ち子供が2人いて幸せに生活していています。思いついて初めての海外旅行にタイを選びました。 嘘じゃあないですよね。

 彼女はツアー客を待たせ、私はボーディングが始まって、10分間の再開であったが、長い間の胸のしこりが消え去ったようで、ほんとうに嬉しかった。 これからも幸せに暮らせよ。

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トップランドホテル

 ピサヌロークのトップランドホテルは、街の北側を東西に貫く国道沿いにある。
このホテルを利用し始めたのは、街で唯一のデパートとつながっていて、一人旅には
非常に便利なためであった。

 特に雨期には雨の心配なく、買い物も食事も、更には古式マッサージも建物内ですませることができる。

 デパートの最上階のフードコートには、十数軒の屋台が並び、ビールすら置いている。雨で足止めをくらったときなど、一人座って時間をかけてビールを飲みながら食事をするのは、 これは便利なものである。 眠くなればここがホテルだ。

 古式マッサージもホテル内にあるのだが、普通の独立した古式マッサージ屋に比べると便利ではあるが、いろんな意味でお薦めは出来ない。

 市内を走るバスや郊外に向かうバスの停留所がホテル前にあるので、何処へ行くにも道路を横切る必要も無く便利である。

 ホテルの裏側にはこの町でも有名な、長い名前のお寺があって朝の散歩でお参りしてみると、参詣の人がとても多かった。これはお参りすれば霊験あらたかで、必ずご利益があると云われていた。

 珍しく長雨が続いた9月のある日、急に思いついてスコータイ遺跡へ行くことにした。ホテル前の停留所から、バスターミナルへ向かう小さなバスに乗りこんで、ターミナルについてみると、まさにスコータイ行きのバスが出るところだった。

 バスの車掌が、パイナイカ (どこへ行くの) と聞いたので、スコータイと答えると、更にムアンカオ?(古い町?)と聞き直したのでうなずくと、乗るな。

 スコータイというのは新しい街のことで、ムアンカオは古い町つまり遺跡のことなのである。だからスコータイ行きに乗ると、ソンテウに乗り換えて更に14㎞は走らねばならないので、ターク行きのバスが良い。ターク行きのバスは遺跡の中の道路を通るので、直接遺跡前まで乗ればよく、この方がはるかに便利である。

 遺跡前の自転車屋で自転車を借りて、水とパトンコーやお菓子を入れたリュックを背に、明るい日差しの中でのんびり遺跡を探訪する。スコータイには遺跡が300個所以上有りとても一日では見ることは不可能だ。そのため城壁内の主立った10個所くらいの遺跡にとどめてもいいだろう。

 その上、アユタヤとは異なり交通の便が悪いので、観光客は非常に少ない。このように広大な遺跡が熱帯雨林の中に、数百年間も放置されていたとはとても信じられないが、現在は立派にその姿を見せているので、是非とも探訪したいものである。

 

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ピサヌロークの街

 ピサヌロークという街の名前は、タイらしくない名前のように思うのだが、バンコクとチェンマイのおよそ中間に位置し、有名なスコータイ遺跡にいく玄関口に当たる街である。
 
 街の中央にはにはナーン川が流れ、その川には水上生活をしている人たちの家々が数多く浮かぶ、夕暮れも近い時刻などに散歩をすると、学校帰りの子供達が細い渡し板を上手に渡り、家々をゆらしながら屋内に消えていく。

 こんなのどかな田舎の町ではあるが、バスはもとより国鉄北本線の駅もあり、その上タイ航空の飛行機も飛んでくる。この街から西へ向かえばスコータイからターク、もう少し進むとメーソットというビルマとの国境である。

 また北へ進路をとればチェンマイやチェンライに達し、ビルマやラオスに接している。そして東へ行けば天険の山脈を越えて東北タイへ抜けられる。このように東西南北へ進むことが出来る要衝の地なのだ。

 夕日に照らされたナーンの川面は、キラキラと輝きまことにのどかである。その川に沿った通りが薄暗くなる頃、あたり一帯が屋台となって、街の人や旅人を誘ってくれる。とても風情があって、食欲をかき立ててくれる。

 この屋台通りの入り口には大きな看板があって、その看板には日本語で「空飛ぶ野菜炒め」と書かれていた。野菜炒めを注文すると空から皿に乗って飛んでくるらしい。誰が書いたか知らないが、せっかくの旅の気分を台無しにしているように思えて気に入らない。

 適当な夕食を簡単に食べて、いったん近くにあるパイリンホテルに引き返した。ホテルに帰って驚いた。 ロビーには20人くらいの女子高生が制服姿で立っていて、私がロビーに立つと一斉に「サワディーカー」 お、なんだなんだ。

 ああ驚いた。彼女たちはこのホテルで体験学習をしている高校生なのだ。そして彼女たちは何人かづつに別れて各階に配置されていった。今回パイリンホテルに宿を取ったのは、このホテルからナーン川が一望出来るからだったが、暗い川面を眺めてみると水上家屋やレストランの明かりが、優しく揺れて幻想的であった。

 年を重ねると朝の目覚めが早いので、まだ暗い4時頃からそっと散歩にでかけようとした。何と各階の廊下には数人ずつの女子高生が立っていて「サワディーカー」。ロビーに降りても、また「サワディーカー」だもの。全く落ち着かない。

 幾ら実習といえども夜を徹してまでやって大丈夫か。日本の高校が同じ事をやったら、いっぺんに親から人権蹂躙と抗議が来るぞ。

 駅の近くまで歩くと、何と煌々とした裸電球に照らされた道路が出現し、その道路には
名も知れぬ野菜、取れたての魚類の数々、美味しそうな果物、鶏や豚の肉、亀や虫などが山積みにになって売られている。これは朝食後にもう一度来なければならぬ。

 ホテルに帰って朝食を済ませ、興奮冷めやらず、7時30分頃にもう一度駆けつけてみると、夢か幻か朝市は跡形もなく消え失せて、車やソンテウが行き交う普通の道路であった。

 霊界から出た悪魔のように、光と共に消え失せた朝の市場は、チェンライの朝市と同じ形態であった。

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勇気ある日本の若者

 私くらいの歳になるとパソコンは持っていても、メールに年賀状、ワードくらいの使用で、なかなか新たな機能を使うことなどは出来ない。 ま、歳もとしだからと、適当にやっていたのだが、娘に勧められてパソコン教室に通うことになった。

 私が通い始めた教室は、近鉄モモの中にあって、親切丁寧な4人の先生に手取り足取り指導をうけた。教室にはコーヒーや紅茶、など飲み物が置いてあって、非常に居心地の良い教室であった。

 しかし認知症予備軍のような私なので、少ずつしか進むことは出来なかったが、それでも楽しく通うことが出来たのは、優しいインストラクターの皆さんのおかげである。 そして一年も過ぎたある時ブログをやってみませんか。と優しく声をかけられて、やってみるか。と始めたのが一昨年だった。

 そして始めたブログは、タイの旅に特化することにした。これまでブログなど考えたこともなかったので、タイの写真などは使えそうなものが無く、しかたなく文章を書きつづるだけのブログとして出発した。

 地理的に考えて、タイの中央部から始めて全体に広げていこうと、中部のピサヌロークの町から始めてみた。全体に範囲を広げるまでに、当然挫折をするであろうと思ったが、何とか皆さまに励まされて今まで続いているのは驚きである。

 読み返してみると第1回目のブログには 、こんな事を書いていた。    ピサヌロークのバスターミナルは、町の中心からかなり東に離れている。このバスターミナルには英語の表記はなく、すべてタイ語で純国産の非常に不親切なターミナルであった。

 ミミズが柔軟体操しているように見えるタイ文字が、読めるはずもなく、行き先にはいつも神経をつかっている。ある時私はターミナルから、ホテルへ帰るためバスに乗った。
  
 発車まぎわのバスに、見事な金髪青年が飛び乗ってきた。乗客の視線は一斉に青年の金髪に注がれている。

 このバスは田舎町ではあるが、料金は生意気にも距離制である。さっそく車掌が行き先を尋ねるのだが、彼は自分の行き先が答えられない。

 リュックをかき回して、やっとガイドブックを探しだしたが、急にはページも繰れない。その間バスはどんどん走っていく。こんな時の焦る気持ちはよくわかる。彼のガイドブックが日本語のように見えたので、お節介なタイスキおじさんは、「何処まで行くの」と声をかけた。

 と 金髪青年は大声で 「日本語が話せるんですか」 ま、私も日本人の端くれなんですよ。何処まで行きたいの?と聞くと 「エキ駅」。 鉄道の駅であることを確認して、車掌に告げるとコップンカーで一件落着し、彼はキップを手にすることが出来た。

 気がつけば、私が降りるトップランドホテル前のバス停は、はるか後方に去っていた。
車掌に小声で停車を告げてそっと降りると、金髪の若者と車掌が笑って手を振っていた。 言葉が全く出来なくて頭は金髪でも、一人で旅している彼の勇気はほめてやろう。

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タイ人の行くマッサージ店

 これほどまでに古式マッサージの店へ行っているのに、タイ人の客と一緒になったことはほとんどない。 タイ人はマッサージがあまり好きではないのか、と不思議に思っていた。
ところが、ある本にタイ人も古式マッサージが大好きと書いてあって、どこか人知れず密かに楽しんでいるらしい。

 そしてその場所は、どうもタマサート大学の近辺にたくさんあるそうだ。好奇心の旺盛な野次馬おじさんは、さっそく出かけることにした。

 チャオプラヤエクスプレスボートをターチャン桟橋で降りて、雨の中をしばらく歩くと王宮の北側にタマサート大学があった。大学の西と北の道を入念に探してみたが、マッサージの看板はおろか、店らしいところは皆無であった。
  
 なんだガセネタか、雨の中を出てきたのに簡単には引き下がれないぞ。とさらに歩き続け探して回った。雑貨屋で聞き、薬屋で聞いてみた。 と、汚い薬屋のオヤジが黙って二階を指さした。

 どうしよう。 こんな薄汚い薬屋の二階でマッサージをやっているのだろうか。私は二の足を踏んで考え込んだ。  えーい男は度胸やってみるか。しかし男でも老人だしなあ。
優柔不断では何も出来ない。 やる!

 改めてヌアペンボラーン?(古式マッサージ?)と確認するとオヤジは黙ってうなずいた。
濡れた傘をその辺に放り出して、おそるおそる汚い階段を上がっていくと、綺麗ではない大きな部屋にマットが3枚置かれていて、歳を取りすぎたおばちゃん4人が、テレビを見ながら話し込んでいた。

 やはり止めようかとも考えたが、逃げる気力もなくマットレスで横になった。ここでのマッサージは勇気と覚悟がないと受けられない。しかし無愛想なおばちゃんのマッサージは、予想に反してかなりのものであった。でもまた来ようとは思わない。

 物は試しと、まだ好奇心の残っている私の探訪は、2時間のマッサージ500円で終わったが、技術の確かな年季の入ったおばちゃんのマッサージが、こんな価格で受けられることはお買い得だろう。 ちなみに日本の観光客がツアーで行くマッサージは、安くともチップ込みで2時間で1350円くらいはする。

  つまりタイ人専用のこんな店が、あちこちにかなりあって、マッサージの第一線を退いた女性達が小遣い稼ぎに気楽に働いているようだ。こんな場所でタイのおじさん達は、のんびり四方山話をしながら寛いでいたのだ。

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イサーンディスコの夜

 とにかく今晩はワンちゃんの慰める会をもつのでタイスキさんも来い。と強いお誘いがかかり、やむなく参加することにした。
 分乗したタクシーの着いたところは、トンブリー地区のイサーンディスコだった。

 屋内には数多くのテーブルが並び正面ステージでは、楽団が大音響でモーラム(東北タイ特有の民謡)を演奏し、女性歌手が歌いダンサーが踊っていた。さながら東北タイ王国に、さまよい込んだかのようであった。

  ノイちゃんを中心とする中年女性の一群に、遅れてきた4人を加えて、8人の強力おばはん軍団がステージ前のテーブル3卓を占拠し、大宴会を開く準備は整った。

 タイの女性は普通アルコールはたしなまないのだが、彼女たちに対してはその尺度はまったく無縁であった。 テーブルにはイサーン料理が次々と運ばれて、ビールの空瓶も林立し始めた。

  日本のおばはんのクレームが原因で解雇までされたのだから、恨み言の矛先が日本人である私にも、向かってくるだろうと覚悟をしていたが、まったくの杞憂であった。
彼女たちの慰めの言葉は、運が悪かった。オーナーやマネージャーの心が悪い。に集中していた。

 隣の人の声さえも、大音響のモーラムは打ち消してしまうが、彼女たちは負けずに泣き、笑い、叫びながら食べて飲んでいる。
 今晩は慰める会のはずだったが、それすら楽しむ一時にしてしまっている。まったく楽天的で陽気なタイ人達である。
 
 歌手もダンサーも、楽団員もまた客も、イサーンの人ばかりだから「同郷」の気安さと連帯感があって、雰囲気はすばらしく盛り上がっている。

 演奏されているモーラムは、どの曲も同じように聞こえるのだが、3曲か4曲目くらい毎に、客が一斉に立ち上がり、男も女もステージ前や通路で踊り出す。
 年齢に関係なく全員が、踊りに陶酔するというか踊り狂うというか、その姿を私は唖然として眺め続けていたのであった。

 日本人にも踊り好きの人はいるのだが、この東北タイ (イサーン) の人達は、楽天的な民族の血を色濃く祖先から受け継いでいるに相違ない。 

 午前1時が過ぎた。老体のおじさんは眠さに耐えかねて、引き上げることにした。彼女たちは朝まで踊っているそうだが、マッサージ中に居眠りなどして解雇されるなよ。
一緒に行った中で2人は顔も知らないおばさんであったが、親切で気のいいおばさんばかりで、楽しい夜だった。

  私は心地よい夜風に当たりながら、、ホテルまでトゥクトゥクに乗って帰り着いた。ご機嫌である。

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同胞ながら 嫌らしい女

 イサーンの赤い 大地は、塩分をたくさん含むので、農業には適さず不毛の地である。 したがって、現金収入を得るため、続々とバンコクを目指すことになる。出稼ぎの男性は建築現場かタクシーの運転手、女性はマッサージ師として働くのが定番らしい。

 当時私はパッポンやタニヤなどのある、シーロム、スリウォンなどの繁華街の近くのホテルを定宿にしていた。その近くにはタワナラマダ(現タワナバンコックホテル)やモンテインホテルなどがあった。

 そのモンテインホテルが、スリウォン通りに面して土産物の店を持ち。その3階でサイアムというマッサージ店を開いていた。料金はかなり高いが、非常に清潔な広い健康的な部屋が気に入って、バンコクに滞在したときに私はよく利用していた。

  いつも私を担当したのは、ノイ、トゥアン、ワンの3人で、気さくなイサーン出身のおばさんであった。3人とも日本語を少し話し、暇なときは私の所に集まって世間話をしながら(私は聞きながら)、3人からマッサージを受けるのが楽しみであった。

 バンコクではマッサージの料金が安いので、私にはまさに「天使の都」と云われる通りであるが、彼女たちは給料など無く、2時間働いて歩合が150B(450円)だった。そこで客からのチップが大いに生計を助けていた。

 いくら住みやすいと言っても、バンコクでの住居費や食費などはバカにならない。彼女たちは3人でアパートを一部屋借りて同居していた。 生活費を切りつめ、残ったお金はイサーンへ送金して、両親や子ども達の生活をまかなっているのだ。

 日本のように健康保険も退職金もなく、ただただ家族のために年中無休マッサージで、働いている健気な彼女たちだった。

 三月のある日、サイアムに出かけてみると、店内にいつもの笑い声は聞こえず雰囲気が暗い。聞いてみると、昨夜モンテインホテルに宿泊した、日本人の中年女性にマッサージをしたところ、痛かったとクレームをつけたらしい。早速ワンちゃんがオーナーに呼ばれて、即刻解雇を申し渡されたそうだ。

 彼女は多少の日本語が出来るので、痛ければ痛いと云えば、柔らかなマッサージをしてくれるのに、その時何も言わず、後でオーナーに面会してまでいいつけるとは、まことに持って嫌らしいおばはんだ。

 その一言で職を失ったワンちゃんと、ワンちゃんの稼ぎで生活している田舎の家族を思うと、全く可哀想であった。

 

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