サンクラブリー

サンクラブリーを去る

 時差が2時間あるとはいえ、 夜明けは日本より遅い。 それでも6時40分頃から、ちらほら客が集まり始めた。  私は市場でいつも非常食にしている、パトンコー(中華系の揚げドーナツ) を仕入れて、出発に備えた。

 この時間になって、若い白人の男女がやってきた。  特大のリュック2個と自転車2台、そのほかに女性の荷物1個をバスに積み込むのだ。これは重装備である。

 バスの下の荷物を積むスペースも、これだけ積むと他の乗客の荷物は殆ど積めない。 
 みんなの荷物が載らないから、定刻になってもバスは出発できない。 しかし、さすがタイ人、運転手も周りの人も非難と侮蔑の苦笑を交わして我慢していた。寛容を旨とする微笑みの国の真価を見た。

 でもタイ人乗客や私などは、荷物を網棚や通路に分散されて、大きな迷惑を被った。まあ どこの国にもデキの悪いのはおるものですな。動き始めた車中でも、くだんの白い馬鹿者男女は傍若無人の態度である。

 色が白くて英語を話す人間がそんなに偉いのか、馬鹿にしたらあかんで。誰が英語を世界の共通語にしたのか本当に腹立たしい。しかし私など戦前生まれの人間は、敗戦によって白人に対する屈辱感を、嫌になるほど味わってきた。

 だから白人だ。 と言うだけで頭に劣等感がむくむくと沸き上がり、ヘナヘナと弱気になるこの習性が無性に悲しい。

 このバスはカンチャナブリーを通り過ぎて、バンコクの北バスターミナル(モーチット)まで行く一日三便の貴重なバスである。

 もし、終点まで乗って車酔いしなければ、バンコクに寄らずどこか遠くに行ってやろうか。
それなら、モーチットからも出ている、海に近いラヨーンまで行って、サメット島でも悪くない。 さてうまくいくだろうか。

 往路で苦労した悪路を、悲壮な思いで走破して、バンコクの北バスターミナル (モーチット) に着いたのは、出発して8時間後のことであった。

 これから更に3時間30分は、さすがに辛い。迷いはしたが、心ならずもバンコクで、急遽ホテルを探すことにした。ところが運悪くこの日は金曜日だったので、ホテル探しは思うようにはいかず手間取った。なかなか思い道りいかないのも、緻密な計画を持たない一人旅の楽しみである。

 

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暗闇は犬どもが支配する

 午前6時10分になって、やっと清掃をするおばさんが現れた。 さっそく料金と鍵を渡して帰路についた。 大きな声で話しながらランプの明かりを頼りに、モン族の人達が木橋を渡ってくる。どんな仕事を持っているのか知らないが、数人のグループが三々五々に続いてくる。

 確かに古い木造の橋を暗闇で渡るのは、単独では非常に危険なので数人での行動であろう。

 日本より夜明けが遅く、まだ漆黒の闇のなかで灯りを持たない私は、断りもなくモン族グループの人達の後について歩いた。グループの中に入ったことで、どれほど助かったことか。それは凶暴な野犬の群れである。 十数頭の野犬が吠えまくり犬相をかえて威嚇するのだ。

 野犬どもは、闇から湧いて出たのかと思うほどたくさん出没する。タイの犬は暑さを避けるため、日中は木陰などで怠惰に寝そべっていて、暗くなれば突然目覚めて夜の街を支配するのだ。

 こんな野犬でも縄張りがあるのか、50メートルも遠のくと追っては来ない。ヤレヤレと安堵すると、新たな群れが待ち構えていて吠えまくる。 市場に行き着くまでに4つの群の脅しにあった。  もし私一人であればとてもじゃあないが、夜明けが来るまで歩けなかったであろう。

 モン族の人たちが時間を合わせ、グループで坂道を上り、市場に向かう事がよく分かった。 こんな時間に外国人客の一人歩きなど、絶対に出来るものではない。 日中はなんでもないのだがなあ。

 やっとバスの停留所のある小さな市場までやってきた。20人ばかりの人たちが、朝の商売の支度をしていたが、食材はあるが食べられるものは、緬を食べさせる店が一軒開いていただけだった。
毎日のように犬に脅されながら、30分もかけて山中の急な坂道を歩いて来なければならない生活なんて、嫌になることがあるでしょうな。

 前にも書いたことがあるが、この犬どもは予防注射など気の聞いたものはしていない。
「犬に噛まれないように注意をしましょう 」 と日本の外務省は、ふざけた安全情報を流している。  注意をしたら噛まれることはないのか。 外務省の役人なんか、デスクに座って作文していれば勤まるらしい。

 こういう現場に遭遇すると、私も狂犬病の予防注射をしておく必要を感じることがある。
帰国後、ある保健所で狂犬病の予防注射が受けられますか。とたずねたら、申し込んでいただいたらやりますよ。 と快く言ってくれた。

 それではお願いします。と云うと、わかりました。今日がちょうど予防注射の日ですから、犬を向こうの建物に連れて行ってください。?  ヘッ 受けたいのは私なんですが。
狂犬病の予防注射が受けられる対象は、犬だけであった。

 では私はどこで受ければいいでしょう。 とたずねると、さあ大きな病院にでも行かれたらどうでしょうね。 ですって。 

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得難い経験をした

 敷地内の客のいない野外のレストランに夕食に出かけた。 私が近寄ると店員はさりげなく離れていく。 イジメダ! 久しぶりに完全に敬遠されている。 先刻レストランの終了時間を聞きに行ったとき、会話が全く成り立たなかったせいである。

 店の奥から20代の女性が押し出され、タイ語のメニューを持ってきた。 メニューなど持ってきても読めるはずはない。 お互いにそのことが分かっているだけに、困ってしまうのだ。

 ところが私は余裕である。彼女を横に座らせてポケットから取り出したのは、自作の日本語とタイ語を併記したメニューである。 このメニューは料理の内容も書き込まれ、私の好きな料理しか書かれていない優れものである。

 好きな料理から順番に書いてあるので、上から順に作ることが出るかどうか、聞いていくと注文は簡単にできてしまう。
幸い彼女は数少ないタイ人だったので、文字は読むことが出来た。 注文したのは「焼きイカのライムサラダ、豆腐のスープ、豚肉とカシューナッツの炒め物、茶碗蒸し、ご飯」それにビールである。 どうだ、まいったか。

 暮れなずむ湖と水上家屋の、ほのかな灯りを眺めながら、至福のひとときを過ごすことが出来た。みんなの犠牲として送り出された彼女は、途中で蚊取線香を持ってきたり、ビールをつぎ足してくれたり、なかなかの気配りで全く申し分のない夕食であった。

 気が付けば若者のグループが二組やってきて、食べる飲む歌うで気勢は盛り上がるばかり、大騒ぎになってきたので切り上げることにした。どこへも出ることが出来ない山中なので、やむなく私は小屋へ引き上げた。

 その夜感じたのだが、バンガローなんか壊れかけた南京錠はあるが、セキュリティーなどは無いに等しい。 あまりにも暑いので、冷房を入れたが、窓や板の隙間などから熱気が入るので何の役にもたたない。 何よりも困ったのは、どこからはいるのか蚊が多い。

 その上、誰かが夜中に歩き回る足音がする。 犬が近寄りウーとうなり声をあげて、扉に体当たりまでする。
気になって、眠ることすらできない。旅の貴重品を抱えて、まんじりとも出来ず朝を迎えた。山深い寂しいバンガローなんか、聞くのはよいが並の人が泊まるものではない。

 静かな山のバンガロー、と聞くと何かロマンチックな感じがするが、ホテルではないので、早朝など誰も起きてはいない。  7時のバスに乗るには、まだ暗い6時頃にはチェックアウトがしたい。事務所など誰も起きてこないが、料金は支払わなくていいの。 そりゃあこんな小屋だから必要はないか。 それでもバンガローの鍵は誰に返せばいいのだろう。

 

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別世界に来たようだ

  太陽の光が容赦なく降り注ぐなか、モン族の作った長い木橋を渡ってみた。
歩行者以外は自転車さえも通させない橋は、遠くから見ると美しく、なかなか趣があって素晴らしい眺めである。

 しかし実際に渡ってみると、板は半ば腐って穴が空き、手すりは折れて垂れ下がるような、大変危険な代物であった。橋の中程まで来たとき、下の湖面から声が聞こえる。
板の破れ目から覗くと、橋桁にひっかった草で出来た、浮島にボートをかけて父親と息子が釣りをしている。

 ジュースの缶にテグスを巻き、釣り針に餌を付けての手釣りだが、浮き草の下が絶好のポイントと見えて、30㎝ほどの魚が次から次に釣れてくる。夕食のおかずには多すぎる。
座り込んで板の隙間から飽きもせず眺めていたら、首だけが紫外線に焼けて真っ赤になってしまった。

 父と子が和やかに話をしながら、夕食のおかずを釣っている姿は微笑ましく、時間を忘れて見ていたが、彼らは橋の影になって快適、私は橋の上のカンカン照り、まったく馬鹿なことをしていたものだ。

 橋を渡りモン族の村からオートバイの後ろにまたがり、島で有名なインド様式ワットなんとかと言う寺と、チェリーブッダガヤを訪れ、一応敬意を表したあと村を散策してみた。いくらモン族ばかりの村と言っても、衣装と言葉の違いでだけで穏やかな人達ばかりだった。 

 橋のたもとまで帰ってくると、小学生くらいの女の子が6人ほど大声を上げながら、盛んに高い木をめがけて石を投げていた。石が当たった茂みからはパラパラと小さな実が落ちてくる。近寄ってみると懐かしい棗(ナツメ)の実だった。子供の頃私も同じように棗の実を落としてよく食べたものだ。

 帰途も長い木橋を渡るのだが、夕方になって涼しくなったせいか、仕事帰りの時間になったせいか、ビルマの衣装(ロンジー)を身につけた男性、タナカーを顔に塗りたくった女性達、色あせた僧衣を身にまとった僧侶、賑やかな子どもの群れなどが橋を渡ってくる。 

 ビルマの国境近くの山あいにある、海のような湖の入り江に渡された、850メートルにも及ぶ古い木橋、なんとも夢のようなで穏やかな風景であった。

 木橋を渡りきったところで、「オーマイフレンド」 と声がかかった。  カンチャナブリーで声をかけ、サイヨークで立ち話をした白人の夫妻であった。

 お二人は英語しか話せず、私は日本語しか話せない。 でも英語が話せずとも卑下することはないぞ。 彼らだって英語だけなのだからお互い様である。この時まで互いに国籍など話していなかったので聞いてみた。

 アメリカですか? ノー スコットランドと誇り高い。 そして私は台湾人と思われていたらしい。
 弱ったなあ。スコットランドかあ。  実はカンチャナブリーの鉄橋を建設させられていたイギリス軍が、スコットランド第93大隊の捕虜で、ほぼ全員が死亡しているのだ。

 やはり彼の父親がここで戦死をして、連合軍墓地に眠っている。夫妻は5年に1度はカンチャナブリーを訪れて、父親の御霊に祈りを捧げているそうだ。 また私の弱気の虫が動き出したが、夫妻と一緒に写真に収まって和やかなひとときがもてた。

 それにしても、サンクラブリーのバス停で手を振って別れた二人に、またモンブリッジで再会した。生涯二度と逢うことはないだろうが、と思いながら再び別れた。奥さんは綺麗、ビルマに沈む夕日も実に美しかった。

 夕焼けのあの山の向うで、ビルマの竪琴を奏でていた、水島上等兵を思い出しながら、平和な時代に生きて、こうしてビルマの近くにいることを感謝した。

 まことに残念ではあったが、20キロメートル西にあるスリーパゴタパスへは、時間もなく、移動手段の確保も出来ず、国境からビルマ戦線を偲ぶという目的は果たせなかった。

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眠ってしまえば どこでも同じか

 バンガローで簡単に荷物の整理をして、今日の行動を考えてみた。 バンガローから坂道を5分も下っていくと、湖と入り江にかかる古い木造の橋がある。  この木造の橋は、モンブリッジと名付けられた対岸に渡る850メートルの橋である。

 橋の向こうはモン族の人達だけが生活する村で、橋が唯一の交通手段となっていて、人の絶えることはない。 まず第一にこの橋を渡ってみよう。

 そのあとは、落ち着いて夕食をとろう。 ア!  夕食の食べられそうな所は、このホテルの、野外レストランだけしか見あたらなかったぞ。

 いま見るところではレストランには客の姿は見えないし、何時まで開いているのか分からない。 外出中に閉店されたら朝まで食べるものがない。 そんなことになったら一大事だ!  この時間の確認をするのが何より大切である。

 さっそくレストランに行って、レストランの閉店する時間を尋ねたが、全然話が通じない。 これまで何とか通じた片言のタイ語が用をなさないのである。 考えてみると彼女たちの言語は、ビルマ語かモン語のような気がする。意思の疎通に苦しむ、が 何とか8時頃閉店と推察された。

 タイでこれまで、怪しげなタイ語を話してみて、その意がタイ人に通じていると錯覚していたのだ、と気づいて愕然とした。言葉が通じていたのではなく、タイ人がこうではないか、と推測してくれていただけなのだ。

 日本語しか話せないオジサンと、タイ語も英語も分からぬお姉さんが、話をしようとするのが間違うてた。そうと分かれば簡単な事だ。冷静になって観察すると野外レストランには、たくさんの照明ランプが設置されている。 暗くなっても開いていると言うっこちゃ。

 三番目は、明朝のバスの出発は午前7時、このバンガローから登り坂を歩いて、どれほど時間がかかるかを確認しなければならない。
暑い峠道をを黙々と歩き続けて、約30分でバス停のある市場に到着した。 こんな遠くまで旅に来て、何をしていることやら。

 小さな市場をウロウロと私が見ていると、ロンジー(男性用のスカート)をはいたお年寄りや、足首まである長いスカートの女性達が、私をじろじろ観察している。 本当は私がいろいろと眺めに来ているのですが。

 集落のはずれにある一軒の家の前で、ピーンときた。文字は全くわからないが、ここは古式マッサージ屋の感じがする。
旅に出るとかなり大胆になる。間違ってもともと、誰もいない奥に向かって声をかけると、怪訝な顔をした女性がでてきた。

 ここはマッサージ屋ですか?(無言)   ヌワッペンボラーン? (無言)
仕方がないので肩を揉むジェスチャーをすると、上がるように促された。 彼女が無言なので、聴力に障害があるのだろう思った。 躊躇はしたが長旅の疲れを癒したいので、マッサージを受けることにした。

 そして可もなく、不可もないマッサージを2時間。 彼女に障害があって話せないと思っていたのだが、そうではなかった。 ただタイ語が分からないだけだった。
彼女はモン語しか理解できなかったのだ。 でも数字くらいは分かるよ。と笑っていた。

 こんな辺鄙な山奥で、2時間300バーツの料金でお客はあるの、と聞いてみると、観光の客だけだそうだが、まあ当然でしょうな。

 料金300バーツは、オーナーが240バーツ、彼女が60バーツを取るシステムらしいが、現金の収入があるだけ有り難いと云っていた。  かなりの搾取だ。
 

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サンクラブリーという町は

 バスを降りた町の中心地には、頬にタナカー(水で練った白い木の粉)を塗って背には籠を担いでいる女性。 男性はズボンではなく、ロンジーと呼ばれる巻きスカートを着用して、することもなくぶらぶらしている。 これはまさにビルマ(ミャンマー)の衣装だろう。

 ビルマと接する山の中での移動手段は、時々通る国境行きのバスと、モトサイ(オートバイ)の後ろに乗って、しがみつくしかない。 これでは広範囲の行動は絶対に出来ない。

 とすると、非常に大きな湖の、小さな入り江の一点にたどり着いたにすぎない。これだけでサンクラブリーまで行って、幻想的なカオレム湖を見てきました。など臆面もなく云えるものではない。

 この時点でどうせ、いろんな所の見学が出来ないようだし、移動手段も見あたらないので、サンクラブリーを一泊で去る気持ちを固めた。

 さて、ホテルは?  湖の近くに泊まりたいと思うのだが、少し中心地から離れると人家はなく、広い山道だけが続くのだ。 何もない山道をただ歩くだけで大丈夫か。 どこにも宿泊予約などしとらんぞ。

 市場の前にいた、バイクの兄さんの後ろにしがみついて、湖の入り江を渡る木橋(モンブリッジ)まで乗せて貰うことにした。 70歳過ぎた後期高齢者予備軍の、おっさんともなると大きなリュックを担いで、バイクの後ろに乗るなど命がけである。

 2月とはいえ熱帯の国である。気温は35℃くらもあるので、熱い山道を歩くことも叶わず。乗ったバイクは恐いけれど楽である。
 
 湖の畔にあったホテルは 「サンプラソップリゾート」 、立派な名前ですねえ。 見渡しても他にはホテルが見あたらず、ホテルが満室ならどうしよう。 
ホテルのフロントらしきところが見あたらず、屋外の食堂に女性が3人見えたので、今日泊まりたいのですが部屋はありますか?  こんなホテルでも部屋は満室らしい。

 泊まるだけならありますが。 泊まれたら十分だ、ぜひお願いしたい。こんな山間部では次の所を探すにも、またモトサイを探すところから始めねばならない。
女性に案内をされたのは、 エー ここですかあ。これは小屋じゃあないですか。

 子どもの頃、土蔵の上にある稲束置き場で昼寝などをしたような事を思い出してしまう。
最近はこんなのをバンガロウーと云うそうだが、こんな小屋にお金を出して泊まるのは初めての経験だ。

 気を取り直して中にはいると、板床にはあまり美しくないベッド、生意気にテレビ、エアコンまで用意されていたが、部屋の窓ガラスが割れていたので、エアコンなど仰々しく置いてあっても何の役にもたたない。

 奥の扉を開けてみるとホットシャワー、トイレがあって、何とか夜露はしのげそうだったので、諦めて泊まることにした。

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これでは捕虜が死んでいくはずだ

 駱駝のコブか桂林か、何と表現したらよいのか困るような、掘削された岩山の間をバスは曲がりくねりながら登っては降りていく。 バスに弱い人には非常に辛い旅である。

 この石灰岩が踊り狂ったような山々を、タイでは国内有数の景観というそうだが、景観とは眺めて素晴らしいのであって、実際に通過するとなると大変である。   この道をもう一度通らない限り日本には帰れないと思うと、悲壮な気持ちになって落ち込んでしまう。

 山から降りるたびに、左側に湖が垣間見えるようになってきた。 カオレム湖である。
このカオレム湖の広さは琵琶湖に匹敵し、タイで一番大きな湖として有名だ。入り江の屈曲が激しいので湖全体を見渡すことは出来ないが、それぞれの入り江には必ずと言っていいほど、水上家屋が数十軒浮かんでいる。

 竹を組んだ上に作られている家は、船で引けばどこえでも移動でき、光熱費も住民税や固定資産税もかかってこない。羨ましい限りだ。

 サンクラブリーを訪れるのは、1月か2月が最もいいと云われている。  雨季には水没する所も出るし、道路に落石や崖の崩壊も起こって、唯一の交通機関であるバスも不通になることも多い。
 あちこちに散在する水上家屋は、美しい風景のなかに、とけ込んでいるが浮き桟橋の役目もしているのだ。

 カンチャナブリーを出てから4時間30分、サンクラブリーの小さな市場前で今日のバスの旅は終わった。   バスはまだ続きの仕事があるとみえて、我々を降ろすと2人の乗客を乗せたまま走り去った。

 先ほどのバスの終点は、三つの仏塔のあるパヤートンズの村で、ビルマとの国境はここにある。この国境を更に越えて進むと、映画 「ビルマノ竪琴」 の舞台である密林近くに出る。ここには何と今でも泰緬鉄道のレール跡が残っている。

 こんな峻険な山を掘削して、一年もかからず鉄道を完成させたのだから、連合軍の捕虜はもとより近隣の国々から集めた労働者には、多数の犠牲者が出るのは当たり前であろう。

 バスを降りた小高い丘の上の集落は、サンクラブリーの中心地となっていて、小さな市場とわずかな飯屋、雑貨屋が全てであった。

 昼食ができるレストランなどは全くないし、小さな屋台で皿に盛ったご飯の上に、適当なケーン(カレー味の汁おかず)をドバッとかけて食べたが、人間は他に食べるものがないとなれば、何でも美味しく食べられるものだ。

 帰路の確認をするため、停留所のおばさんに尋ねてみたら、 毎朝7時にバンコクの北バスターミナルへむかうバスがあるそうだ。 次のバスは昼過ぎになるかなあ。とまったく頼りない。

 サンクラブリーに到着はしたものの、こんな山の中で宿泊など出来る所があるのか、まことに不安である。

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泰緬鉄道に沿って山上の国境へ

昨日バンコクからカンチャナブリーへバスで2時間、ここでのホテルは 「リバークワイホテル」 に決めていた。 その理由はバスターミナルから近いことと、TATが近いことだった。

 朝食を終えチェックアウトをすませ、熱いアスファルトの道を10分ほど歩くともうバスターミナルであった。 バスの発車時刻は午前7時30分、色々な人が集まりはじめていたが、外国人は私と白人夫婦の三人だけであった。

 今日も快晴、山道にはいると一帯が霧に覆われていた。時折霧の晴れ間から見える山は、ギザギザの形の奇岩が連なり、まさに青年期の山であった。
霧の中を走り続けたバスは、カンチャナブリーを出て1時間30分でサイヨークの村に着いた。

 この村でトイレ休憩に入ったのだが、食事もここでとるらしい。  まだ9時だぞ、昼食には早すぎるではないか。これは朝食抜きで乗車した人への配慮と、ここから先は人家が途絶えて、食べるところが無いかららしい。やはり深山幽谷を汽車は這い登って国境へ向かっていたのだ。

 このサイヨークから脇道を入っていくと、ごっつい国立公園があって、滝と密林で有名なばかりではなく、豊かなモンスーン林には鹿や栗鼠も数多く生息していて人気を集めているそうだ。
この自然林を中心にした国立公園には、バンガローなどの宿泊施設も整っていて、若者達がたくさん利用しているらしく、かなりの若者が下車をしていった。

 そのせいで、バスの乗客は半数近くになってしまった。 再び動き始めたバスは急勾配になった道を、あえぎながら登っていくが、最初の坂を上り詰めたとき、道はバリケードで遮断されていて、銃を持った兵士の検問を受けることになった。

 車内に入ってきた4人の兵士の検問は、いつものおざなりなチェックではなく、本格的であった。バッグの中の荷物をすべて出されて検問所へと指示されるオバサン、私の後ろの30代の女性はミャンマーのIDがコピーだからと検問所へ、よく分からないがあと二人は口答えして検問所で尋問を受けることになった。

 それでもバスは何事もなく尋問中の客を置き去りにしたまま出発した。 運転手も他の乗客も平然としていた。 こんな事は日常茶飯事なのだろう。 日本であれば人権問題と大騒ぎになるケースだ。

 私はバンコクでは、パスポートのコピーだけをポケットに入れているが、バンコク以外へ行くときは必ず本物のパスポートを携帯するよう心がけている。
田舎に行くときの飛行機さえもパスポートを必要とするし、ホテルのチェックインや検問にも本物でなければならないので、用心に越したことはない。

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 足が動く間にサンクラブリーへ行こう

 タイ西部のビルマ (ミャンマー) と接する山の中に、ビルマ人、モン族、カレン族、タイ人が混じって生活しているサンクラブリーという町がある。
このうちビルマ人、モン族、カレン族はビルマの軍事政権との、内戦から逃れてタイに永住している難民である。

 ビルマという国は、1945年に軍事政権がミャンマーと改称する前の国名であるが、私はあえてビルマの国名を使っていく。

 少数民族が町の大部分を占め、山また山の奥地にあって、琵琶湖に匹敵する広大な湖を持つサンクラブリーの町は神秘的で、一度は訪ねてみたいものと思っていたのだが、なかなか実現にはいたらなかった。

 第二次世界大戦の時、旧日本陸軍が泰緬鉄道(タイ・ミャンマー)を敷設するために連合軍捕虜やアジアの近隣国民を使い、20万人以上の死者を出していたから、当地の対日感情も決して良いものとは云えない。

 先日カンチャナブリーを訪れたとき、鉄橋上の細い道を歩くと対岸から帰ってくる夫婦と娘が二人こちらに歩いてきた。 さあ困った。すれ違う相手は被害者側の家族、私は加害者側の国民、嫌だったなあ。

 だが考えてみれば何も困ることではない。日本だって非戦闘員を空爆や原爆で無差別に殺されているのだ。戦争とはそういうものだ。とは思うのだが狭い鉄橋ですれ違うときには、自然と頭が下がっている自分に腹が立った。

 オランダ、オーストラリア、イギリスの人々が毎年、親族の慰霊のため数多く訪れている。日本兵だって同じように数え切れないほど死んでいるのだ。
 よーし今回はこの泰緬面鉄道のコースを辿り、ビルマの国境まで思い切って行ってみることにしよう。

 国境のサンクラブリーの町へは、飛行機がないのでバスに頼らなければならない。私はバンコクの南バスターミナルからの出発である。

 南バスターミナルからサンクラブリーへの直行バスがないので、カンチャナブリーで一泊して再スタートしなければならない。

 ガイドブックによると、カンチャナブリーからサンクラブリーまでは、道路でどれだけ不測の事態が起こるかにもよるが、バスで6時間くらいだそうだ。 うーん6時間か、これでトイレ無しのバスなら少々きついぞ。

 それにしても、不測の事態なるものが、しょっちゅう起こっているのだろうか。

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タイに残る戦争の傷跡

 カンチャナブリーの項でも書いたが、戦争末期のビルマ(ミャンマー)戦線に、武器弾薬、食料などの戦略物資を輸送するため日本軍は、トンブリー地区のバンコクノーイ駅からビルマのラングーン(ヤンゴン)までの、鉄道建設に着手した。

 この無謀な工事に携わったのは、連合軍の捕虜、日本軍、労働に応募したインドネシア、タイ、マレーシア、ビルマなどの労働者あわせて、414,000人にのぼった。 そして、この難工事で命を落とした人は、全体で200,000人を超す事になったのである。

 この鉄道敷設工事では、問題にされるのが捕虜の扱いであったが、イギリス兵の捕虜の様子が最もよく知られている。「戦場に架ける橋」の映画に登場するイギリス兵は隊列を整えて、クエイ河のマーチを歌いながら、鉄橋建設の現場に向かって行進し、体力を消耗し尽くして命を落とす兵が続出したのである。
 
 この映画の中で歌われるれる勇壮なクエイ河のマーチは、こんな悲惨な捕虜が命を縮めながら、気持ちを鼓舞する場面で使われたマーチであった。

 これほどの犠牲の上に敷設された鉄道であったが、次第に戦況が悪化して輸送する物資も送れず、日本が降伏するという形で終戦を迎えたのであった。

 昨年の正月に、2回目となる映画 「ビルマの竪琴」 を見て、また涙が出て止まらなかった。ビルマの密林でイギリス軍の掃討に合い、逃げまどう日本兵の部隊が戦死と餓死で次々に倒れながら終戦となる。

  捕虜となった日本兵は生きて日本に帰れたが、囚われの身を恥とする多くの日本兵は密林の中に、あるいは逃走する道々に累々と屍をさらした。

 中井貴一が扮する水島上等兵の部隊は捕虜となる道を選んだが、戦場で死んだ若い兵のポケットから覗いていた、妻と子どもの写真をみて、水島は望郷の念を涙ながらに捨ててビルマの僧侶となった。
途中で出会ったビルマ人に、あの山を越えればもうタイの国だ。タイは交戦国ではないから、あと少し頑張りなさい。そしたら生きられると励まされていた。

 この映画の背景に流れていた、「埴生の宿」の旋律は、水島上等兵が奏でる竪琴や、日本兵が歌う合唱によって心に染みわたり、同じ世代に生きた者としたまらなく、涙を禁じ得なかった。

 「あの山を越えればもうタイの国」と呟きなが兵は息絶えていった、日本の若い兵士には申し訳ないが、その山の上の国境からビルマ戦線を眺めることで、往時を偲んでみたい。

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